![]() ![]() 「御幸くん、捕手なんだって?」 入学して約三カ月、夏休みも目前にして佐倉から声をかけられたのはそれが初めてだった。しかも廊下ですれ違い様、目も合わせて来なかった癖に突然そんなことを質問していた。当然、佐倉も俺も立ち止まる。それを聞いてどうする気なのか、嫌な方向と良い方向へと思考は分離する。 (ていうか、俺が野球部って知ってたのか…) それが正直な感想だった。普段、人には全く興味なさそうな顔をしているからだ。振り返ると、佐倉もこっちを見ている。あの、何を考えているのか分からない黒い目で。身長は160cmにも満たない。まあそれが昨今の女子の平均的身長だとはいえ、俺から見ると随分と小さく映る。 けれど、普通の女子生徒と違うのはその右腕と右手だ。この間ちらりと見えた佐倉の右手はマメだらけだった。およそ女子のものとは思えぬ手で、しかも新しいものではない、随分前からあるように見えた。一瞬だったから憶測も含んではいるけれど。 「どっかで聞いた名前だと思った、御幸一也って」 「は?」 「兄が東京で社会人野球やってるから」 それでこの間、社会人野球の記事を熱心に読んでいたのか。ここでようやく合点がいく。野球には興味ないと言いきった癖に、兄の記事はしっかりとチェックしているという訳だ。しかしそれとこれとどう関係があるというのだ。 まあ立ち話もなんだ、と教室前の窓際に二人でもたれかかった。俺と佐倉が話しているのはクラスではさほど珍しいことではなくなったらしく、特にじろじろ見て行く生徒はいない。 「あの人、選手の上に野球オタクだから、リトルもシニアも高校・大学・プロって軒並み全部手つけてるのよね。将来すごいことになる捕手がいるって騒いでたの思い出したの。御幸くん、そんなすごいの」 「や、そんなの自分じゃ分かんねーけど」 「それもそっか」 これもまた珍しい。佐倉が俺に対してこんなに饒舌だとは。しかもバドミントン全国区の佐倉の兄のお墨付きを頂いてしまった。 だが、上げたと思えば落とされる。じろじろと俺の頭のてっぺんから足まで眺めて絶った一言。 「捕手にしては華奢だね」 いや、お前が言うか。そんな言葉が出かかった。しかも男子高校生の成長期なんてこれからだろ。高校一年で体ができていたら苦労はしない。更にはついでにと言わんばかりに俺の肩やら腕やらを触りまくる。え、なにこれ新手のセクハラ?それとも佐倉式のスキンシップ?…もう何が何やら、明日は空から槍でも降って来そうなことばかり起こる。 「うちの兄、かなり体格いいから。ちゃんと食べておっきくなりなよ」 「はあ…」 自分も人のこと言えねぇだろ。そんな細っこい腕でどうやって全国レベルのスマッシュ打つんだ。だが多分、佐倉は華奢な方がコートの中で小回りが利くのだろう。シングルスの選手となれば、前後左右にコート内を駆け回らなければならない。持久力に瞬発力、先日のシャトルランの結果が佐倉の持つそれらの能力を表している。 だが結局何が言いたかったのか分からない。佐倉なりの激励なのか、ただの雑談なのか、貶しただけなのか。人をあしらうのは得意なはずなのに、佐倉の前では冗談や軽口の一つも出て来ない。 「気を付けた方がいいよ、巨体がホームに突っ込んで来たらひとたまりもないんだから」 ラフプレーのことを言っているのだろうか。もしかすると、佐倉の兄がそういったことで怪我したことがあるのだとか。それで俺を心配して――― 「ま、一回くらい突っ込まれて見れば?」 …んな訳ないか、佐倉に限って。いつも通りの辛口コメントだ。 「お前こそ気をつけろよ」 「私の場合ぶつかるのは床だからタカが知れてる」 「タカがって……床で擦りむくの結構痛いぜ?」 「でもシャトルを落とす訳にはいかない」 そう言った時の佐倉の目は本気だった。どんなスマッシュでも必ず返してやると言わんばかりの、火のついた目だ。 多分、全力で部活してる奴ならどこにでもいる。“ここだけは譲らない”というエゴの塊みたいな人間が。野球で例えるなら投手がその一つ。マウンドを譲りたくない―――それと同じなのだろう。佐倉はどんな速いスマッシュも返すという自信に溢れている。一つでも落としてたまるかと。 (何が楽しい部活がやりたい、だよ。本気で全国狙いに行ってんじゃねぇか) 下らないと思いつつ、噂で聞いたことがある。佐倉は中学でも三年間レギュラーを譲らず、バドミントン部の部長も務めたと。ただ圧倒的な力の差から部員は誰ひとり佐倉について行かず、それなのに“佐倉の独裁政治”と呼ばれた。だからか、団体戦をとことん避け、最後まで個人戦シングルスに出場し続けた女帝。どこまでが本当でどこからが脚色かは知らない。だが、佐倉が地元を離れ、バドミントンの名門でもないここを選んだということは、あながち噂の中には当たっている部分もあるのかも知れない。教室で浮いているのも事実だ。 「佐倉さ、もっと表情出せば?」 「なんで」 「バドミントンやってる時の顔とは多分まるで違うと思うぜ」 「…バドミントンは好き、学校は嫌い」 「あ、そ…」 人のアドバイスをさらりと無視する潔さ。だけどそんな佐倉と話していると正直とても気が楽だった。相手が素でずけずけ言って来るから、こっちも気にしなくていい。 友人と言うにはまだ足らなくて、ただのクラスメートと呼ぶには少しよそよそしい。けれどなんだか、この距離がとても心地良く思えた。 (2014/06/07) ← ![]() |