夏休みの校内は普段と比べてとても静かだ。職員室もそれは同じで、校外へ研修へ行く先生がいれば、部活の遠征を引率する先生もいる。中には補習担当の先生もおり、職員室の印刷機は忙しく動いていた。私は図書室に追加希望する書籍の申請書を届けに来たところだが、図書室よりも涼しい職員室に鳥肌が立ってしまった。それでも運動部生たちは暑いらしく、顧問を訪ねにやって来た野球部員はずっと汗を流している。
 そんな彼を見ていると、ふと青峰くんを思い出した。さすがに夏休みまで毎日司書室前に現れるはずがなく、密かな逢瀬となっていたあの一時は夢だったのではないかとさえ思ってしまう。

(部活、行ってるのかな…)

 職員室に寄ったついでに、新しい掲示物も引き取る。図書室前のポスターの張替え、新刊情報と、夏休みでも仕事はたくさんある。青峰くんが来てくれたところで大して構えるわけでもないのだが、習慣と化していた訪問が急に途絶えるのはとても寂しく思えた。
 ぼんやりしながら階段を降りていると、バタバタと慌ただしい足音が無人の廊下に響いた。「ちょっと待ってよ!」と叫ぶ女の子の声も聞こえる。やがて、よく知った青い髪と、それを追い掛ける桃色の髪が私の前を横切った。

「あお、」
「青峰くんってば!」
「うるせぇな、さつき」

 さつき。そう呼ばれた彼女は長い髪を高い位置で一つに纏めており、それは振り返りもしない青峰くんを追い掛け走るリズムに合わせて軽やかに弾んでいた。一体誰なのだろうか、図書室から殆ど出ない私は、図書室常連の生徒以外の顔をあまり知らない。だから、“さつき”と呼ばれた彼女のことも当然知らなかった。
 クラスメートなのだろうか、ただの友人だろうか、特別に親しいということはあるのだろうか―――教室での青峰くんを全く知らない私は、憶測することしかできない。青峰くんが私には気付かなかったということも、もやもやする原因の一つだ。急いでいるようだったから仕方ないと納得するしかない。

(ポニーテールか…)

 可愛いシュシュをつけていた“さつき”の後ろ姿が頭から離れない。あんな風に無防備にうなじを晒すことを厭わない彼女に、私は勝ち続けることはできるのだろうか。青峰くんより年上で、同じイベントや行事に参加できなくて、同じ制服は着られなくて、堂々と隣を歩くこともできなくて、それでやって行けるのだろうか。彼と会わなくなり、最近は専らそればかり考えてしまっていた。一度は私を選んでくれても、この先なんて分かりはしないのだ。

「売れない恋愛詩人にでもなれちゃいそうだわ…」
「そりゃ困るだろ」
「えっ!?」

 こぼした独り言に低い声で返事がする。勢いよく振り返ると、箱の中のポスターがいくつか飛び出てしまった。…青峰くんだ、さっき通り過ぎて行った青峰くんだ。面と向かうのはやけに久しぶりな気がして、やや緊張気味に「ひさしぶり」と言う。「おう」と青峰くんもぶっきらぼうに返事しつつ、落としたポスターを拾ってくれた。

「あの、さっき私…」
「そこにいただろ?探してる日に限って図書室にいねーし、さつきに見付かって追い回されるし」
「…そう」

 さつきって誰、とは言えなかった。格好悪いではないか、子どもじみた嫉妬なんて。こうして会いに来てくれたのだから気にしないでおこう。でも、なぜ私を探していたのだろう。最後を切り出すためだろうか。…一度泥沼にはまってしまった思考はなかなか浮き上がれないらしく、青峰くんの顔さえまともに見られなくなってしまった。

「なんだよ元気ねーな」
「あ、暑くて、それで、」
「あーっ!青峰くんみつけた!」

 後ろからもう一つの声が、私の声に被さる。“さつき”だ、そう思うと複雑な気分になった。どんな理由で追われているのかは知らないし、知らないことが多くて当然なのは分かっている。けれどそれでも、恋愛経験の少ない私が気に留めないことはできなかった。女の子の影がちらつく度に、終わりへのカウントダウンなのではないかと思ってしまう。そのようなことを言われたことがないにも拘わらずだ。こういう時は逃げるに限る。しかし「私、仕事に」と言いかけて今度は青峰くんに遮られた。

「さつき、丁度良かった」
「何がよ!私はもうへとへとなんだから!」
「司書サン、こいつ桃井さつき。ガキん頃からの腐れ縁」
「は、はぁ…」
「え、なに…?」

 なぜだかいきなり紹介されたが、とりあえず幼なじみだと言いたいらしい。酷く面倒臭そうに紹介をされたが。桃井さんも桃井さんで、青峰くんの言いたいことが分からないらしく、青峰くんと私を交互に見遣った。この学校に司書は一人しかいないから、桃井さんはきっと司書の存在くらいはしっているだろう。「で、」と言って青峰くんは私の肩を抱き寄せた。

「オレの司書サン」
「な……っ!!」
「だいちゃん……っ!?」

 夏休みで生徒が少ないとは言えここは学校。誰に見られているか分からないというのに、いくら幼なじみ相手だからと言って青峰くんは危機感がなさすぎる。代わりに私が勢いよく否定しておいたが、私が真っ赤になっているのを見て桃井さんまで赤くなってしまった。どうやら否定は失敗に終わったらしい。桃井さんは言葉を失い、固まってしまっている。にも拘わらずマイペースな青峰くんは、私の腕を掴んでずるずると図書室前まで引きずって行く。
 私よりずっと背の高い青峰くんは、当然歩幅も大きい。更に速足で歩かれれば私は小走りでないとついて行けない。足がもつれそうになりながらようやく図書室前まで来たが、桃井さんが追って来る気配はない。そこではっと我にかえった私は、青峰くんに向かって叫んだ、いや、叫ぼうとしたのだが。

「あお、みねく…?」
「こ、こっち見んな!」

 そっぽ向いてしまって分かりづらいが、彼は確かに照れていた。ついさっきは平然とした顔でどこの本から盗んだのか分からないような言葉を使った癖に、今更、あの青峰くんが赤くなるなんて。思い出して私までまた赤くなる。
 どうしよう、廊下は暑いし、仕事しないといけないし、ポスターの張り替ええも、新刊告知も、貸出と返却の整理と、それから他にも仕事はあったはず。一分でも惜しいのに、動けない。顔から火が出るような甘くて刺激的な愛の台詞なら、恋愛小説で飽きるほど読んだ。実際赤面したことのある台詞だってある。それなのに、さっきのぶっきらぼうな青峰くんのたった一言に、こんなにも動揺してしまうなんておかしい。もう二十歳過ぎの良い大人が、なにを激しくときめいているのだろう。

「あのさ、司書サン」
「う、うん…」
「さっきの、あれ、本心だからな」

 暑さで青峰くんも血迷っているのだろうか。いつも何でも平気な顔して言ってのけて、平気で危ない橋を渡ってみせるのに、急にそんな顔をするなんて卑怯だ。そんな恥ずかしそうに照れ隠しを言う青峰くんは見たことがない。
 そうだ、彼はいつだって卑怯だった。私がわざとひこうとしたラインを、引いた傍から消してかかる。今日も、あんなに感じた嫉妬をすぐ掻き消してみせた。駄目ではないか、私の方が大人のはずなのに。

「…私が、喜ぶとでも思っているんですか」
「その返事が何よりの証拠だろーが」

 まだあっちを向いたまま、私の頭を小突く。その瞬間、一人で思い詰めていたことが頭の中から抜けて行った気がした。いつの間にか私の中で大きな存在となっていた彼に、私はこんなにも翻弄されている。それなのにどうしよう、これが幸せというものなのだろうか。嫌じゃないと思う自分がいた。








  

(2013/01/29)