私にはかねてより気がかりなことが一つあった。

「…青峰くん」
「あ?」
「部活行かなくてもいいの?」
「いーんだよ」

 バスケ部に所属すると言う青峰くんが放課後、部活に行っている様子が全くないことだ。学園内のあちこちからいろんな部活が練習に励む声が聞こえる中、彼は堂々と練習をサボタージュしている。悪びれた風もなく、毎日およそ同じ時間に司書室の外へ来ては、適当に時間を潰して帰って行く。そうなると、私の中に一つの推測が生まれる。
 図書室に届いた新刊をまとめていた手を止め、私は窓際へと近寄る。青峰くんは外の壁に凭れてあっちを向いたまま、私を振り返ろうとしない。ますます怪しい。人の目を見て接することができないのは、何か気まずいことがあるからだ。

「あのね、余計なお節介かも知れないし、私の勘違いかも知れないんだけど…」
「回りくどいこと言ってねぇで言えよ」
「青峰くん、部活でいじめられているの?」

 強豪校だとか、大勢の部員を抱える部活では上下関係も練習も厳しいという。残念ながら私は運動部に所属した経験がないため詳しいことは分からないが、もしかすると青峰くんも何か酷い目に遭っているのかも知れない。それで部活に行くことができないとしたら、それは由々しき事態である。私に何ができる訳でもないけれど、辛い思いをしているならそれを見過ごすことはできない。…しかし、そんな私の心配など切って捨てるかのように、青峰くんは暫く肩を震えさせていたかと思うと、大きく噴き出した。

「ちょ、ちょっと!?」
「いや、おかしすぎるだろ…司書サンの目、節穴かよ…っ」
「私は本気で…!」
「オレがちょっといびられた程度で逃げるようなヤツに見えるか?」

 寧ろ百倍返しくらいしそうな勢いだけど。それでも分からないではないか。二年生、三年生と一年生ではやはり何もかもが違う。たった一つ二つしか違わなくても、一年二年の経験の差というのは大きいものだ。いくら青峰くんが強そうに見えたって、先輩たちはもっと強いかも知れない。私には想像することしかできないけれど、だからこそ膨らむ心配というのもある。そんな私の気も知らないで笑うだなんて、心配して損をした。

「気にした私が馬鹿だったってことね。もういいわ、心配なんてしないんだから」
「そんなこと言ってねぇだろ」

 腹が立って青峰くんに背を向ける。もう作業に戻ろう。今月は特別新刊が多い。夏休みで図書館を利用する生徒が少なくても、本の発売は止まるはずがないのだ。真新しい本にカバーを付け、桐皇学園図書館の蔵書印鑑を捺す。淡々とした作業だが、指先ばかりを使うこの作業は以外と疲れる。あまりのんびりやっていては今日中に終わらない。今日の仕事は今日の内に終わらせなければ―――そうして本の積まれた机まで戻ろうとしたら、突如ぐいっと後ろに引っ張られる。まとめていた髪を乱暴に掴まれたのだ。あと少しでも勢いが良かったら、私は窓の外に頭から落ちていたかも知れない。そう思うとヒヤリとした。

「っと、痛いでしょう…!」
「オレより大人の癖にすぐ拗ねるんだもんな」
「…性格なのよ、悪かったわね」
「悪くなんかねぇよ」

 だからこっち向けよ。ずっと年下の癖に、いつも彼は命令口調だ。それを正すのが私の役目なのだろうけど、それができるだけの威厳がないのが彼に好き勝手させてしまう原因の一つだった。…しぶしぶ青峰くんの方を向くと、意外にもするりと髪が青峰くんの手をすり抜けて行く。すると今度は私の後頭部にその大きな手のひらを差し込んで、ぐいっと顔を引き寄せた。それは、一瞬の出来事。互いに熱い唇が、瞬き一つの間に重なって離れる。私は真っ赤になって、けれどすぐに青ざめた。

「見つか…っ!!」
「これだけのことやってのけるってのに、逃げる訳がねーよ」

 私は悲鳴をあげたいくらいなのに、青峰くんは意地悪く笑って言い放つ。反省の色も何もない。確かに夏休みで生徒は少ない。けれど出勤している先生はたくさんいる。生徒に見つかるよりも先生たちに見つかる方が私にとっても青峰くんにとっても危ないことではないか。

「こんなことで証明しなくてもいいです!」

 青峰くんを突き飛ばして、とうとう私は作業に戻る。カバーをつけて、印鑑を捺して、できた本から順に籠に入れて行く。そんな単純作業を繰り返してすぐに、「おーい」と抑揚のない棒読みな声が後ろから聞こえて来た。けれどそれを無視して私は仕事を続ける。この真夏に、クーラーをかけているとはいえ司書室の窓を開けているのはそんなことをするためではないのだ。長く続けるために、少しでも危なくない付き合いをしたいと思うのに、青峰くんはそんな私の気持ちなど知りもしない。十代特有の怖いもの知らずさなのだろう。それと、少しのスリルへの憧れ。けれど、洒落にならない事態があることだって、私は知っている。だから、危ないことはしたくない。リスクなんて少ないに越したことはないのだ。こうして窓を開けている時点で意味はないと言われればそれまでだけれど。

「なあ」
「…………」
「司書サン」
「…………」
「司書サンが心配するようなことなんて一つもねぇよ」
「…………」
「…機嫌、直してくれよ」

 最後はあまりにも暗い声音。私は眉間に寄った皺に手をあてて、ゆっくりと息を吐き出した。

「もう怒ってない」

 言いながら、印鑑を捺す。少しぶれて掠れてしまった。それでも読めなくはない。それに、捺し直すと余計に汚くなってしまう。私はぱたんと本を閉じると、籠の中へと納める。新しい本を捲る音が、外から聞こえる部活生たちの掛け声よりも、全力の蝉の鳴き声よりも大きく聞こえるような気がした。たくさんの紙を捲って来たせいで、夏だと言うのに私の指先は乾燥している。その綺麗ではない指先を見つめていると、「司書サン」と声をかけられた。

「今日一緒に帰るぞ」
「私の話聞いてた?」
「だから司書サンの機嫌取りしてんだよ」
「…分かっていないでしょう」
「偶然会って帰る方向が同じだってのに話もしねぇ方が不自然だろ」

 上手いのか上手くないのか。少し無茶苦茶な理屈だとは思うけれど、青峰くんの言う機嫌取りに乗ってあげることにした。こんな単純作業ばかりでは流石に気が滅入る。下ばかり向いていたせいで首も痛い。だから、仕事の終わる夕方には少しくらい彼を見上げて歩くのも良いかも知れない。…青峰くんはこうやって、私にどんどん油断を作らせる。一度緩んでしまったネジを締め直すのはかなり努力が必要なのかも知れない。

「青峰くんは時々強引過ぎる」
「でも嫌いじゃない、て言いたいんだろ」
「自意識過剰よ」
「言っただろ、司書サンは分かりやすいんだよ」
「…………」

 また一つ、青峰くんの思い通りになってしまった。駄目だと思いながらも御することができない嬉しいという気持ちは、大人失格の証拠。私の後ろでは、青峰くんがまた笑いを堪えているのだろう。








  

(2012/09/21)