私は、思わぬ人物から呼び出しを受けていた。先日少し顔を合わせただけの女子生徒、かの桃井さつきさんだ。司書と生徒と言っても、女性同士であれば二人で話していても何ら不思議ではないため、私たちは堂々と誰もいない図書室にいた。お盆休み前だからか、八月に入ってから図書室を利用する生徒数は目に見えて減った。夏休み中に本を借りに来る生徒は当然少なく、今朝も一人、借りていた本を返却しに来たきり、誰も訪れて来ない。そんな中、部活の休憩時間なのだろうか、この間のように髪をアップにまとめ、バスケ部のジャージを着用した桃井さんが現れたのだ。彼女も本を借りに来た数少ない一人なのかと思えば、そうではなく私に個人的に用事があるようだった。

「青峰くんを見ないと思ったら、最近は図書室に来ていたんですか?」
「図書室って言うか…図書室の外に」

 カウンター横の窓の外を指さす。すると桃井さんは頭を押さえて呆れて見せた。一体私に何の用なのかと構えたのだが、彼女の雰囲気からするに何かを問い質しに来た訳ではないらしい。お陰で肩の力は抜けた訳だが、今日も青峰くんを探しに来たのだとしたらここは間違いだ。今日は彼を一度も見ていない。さすがに青峰くんも毎日はここへ足を運んだりはしない。私は常に仕事をしているし、これまで読書の習慣がなかった青峰くんは飽きもするだろう。
 いよいよ困った顔から険しい顔になった桃井さんは、突然勢いよく頭を下げた。

「ちょ…っ!?」
「お願いですさん、部活に行くよう青峰くんを説得して下さい!!」
「は……」
「青峰くんが部活をほとんどサボっているのはさんもご存じだと思います」
「え、ええ…」
「でも、それには理由があって、本当は青峰くん、」
「ス…ストップ!」

 捲し立てようとする桃井さんに制止をかけた。話が長いだけならまだ良い、けれど彼女の様子から察するに何か深い理由がありそうではないか。桃井さんが必死になっているのは分かる、けれどその深い理由というものは私が聞いて良いものかどうなのかは判断しかねるのだ。青峰くんがそういう事情を自分で話すような人物ではないことは、桃井さんも分かっているのだろう。だから私に話そうとしたのだろうが、どうも個人情報のにおいがしてならない。本人が言わないことを第三者から聞くのは憚られる。きっと軽くない話だろうから尚更だ。
 私は、これまでの青峰くんのことなんて何も知らない。なんで桐皇に入学しようと思ったのか、いつからバスケをしているのか、中学ではどうだったのか―――きっと普通の友達同士なら何の気兼ねもなく聞けるのだろう。けれど私と青峰くんは違う。何の気兼ねもなく、躊躇いもなく何もかもを聞けるような間柄ではないのだ。だから私が知ってることは、ここでサボるのが好きで、本と勉強が嫌いだということだけ。正直、バスケ部に対する考えだとか気持ちだとか、そういうのは聞こうと思ったこともなかった。一度、部内いじめでもあるのかと心配したことはあるが、盛大に笑い飛ばされたくらいだ。

「私みたいな部外者が口を挟むことじゃないと思います」
さんは青峰くんにとって特別な存在だってことは分かってるんです」
「うーん……」

 そこを肯定することはさすがに気が引けて、私は曖昧に返事をした。青峰くんを部活に連れて行きたいと言う桃井さんの気持ちも分からなくはないが、私にも通すべきけじめはある。桃井さんと私では立場も違えば役割も違う。

「青峰くんは、何も知らない私に言って欲しくないんじゃないかな」
「…本当に何も、何一つ知らないんですか?」
「何も知りません。クラスもどこだか曖昧なくらい、私は何も知らないんです」
「そんな……」

 肩を落として項垂れる。申し訳ないとは思うが、私ではバスケ部の力にはなれなさそうだ。
 きっと、桃井さんもここに来るまで悩んだのだろう。滅多に来ない図書室へ足を踏み入れるのは勇気も要っただろう。ましてや、図書室関係ではなくとても個人的なお願いごとだ。バスケ部を、というよりも、彼女も個人的に青峰くんをとても大切に思っているのだろうと思う。何せ、青峰くんと桃井さんは幼馴染―――青峰くん曰く“ガキん頃からの腐れ縁”なのだから。私と青峰くんとはまた違う形の特別な関係というものを、そこに見た気がした。
 何も私は意地を張っているのではない。桃井さんに対して嫉妬しているだとか、そういう訳でもない。彼女に言ったことは全て本心だ。きっと青峰くんなら、こうして誰かを介して昔の話をされるのは嫌うだろう。およその人間がそうではないだろうか。そこで私が余計なお節介をして、青峰くんが傷ついてしまうことは避けたかった。彼の怒りに触れてしまうことも怖かった。だから私は、彼女のお願いを受け入れる訳にはいかない。何となく、青峰くんがただのサボりではなく、避けるように、逃げるようにここに表れているのではないかということも、薄々気付いていながらも、なお。

「桃井さんみたいに、青峰くんの尻を叩いてくれる人は要ると思います。けれど、それは桃井さんの役目であって私の役目じゃない」
「じゃあ、さんはどうなさるんですか」
「そうだなあ…私は受け皿、かな」
「受け皿?」
「逃げたい気持ちとか、避けたい気持ちとか、向き合いたくない気持ちとか、どこにも向けられないどうしようもない気持ちの受け皿になれれば良いと思っています」

 否定もせず、肯定もせず、ここに来た時に嫌な思いをしないで済むように。話してくれなくても良い、誰にも言えない葛藤や複雑な思いを否定したり拒否したりするのではなく、なんでもない会話でも繰り返してゆっくりと部活に向き合える気持ちの余裕ができれば良いと、そう思っている。今の青峰くんは、色んなことでいっぱいいっぱいなのではないだろうか。周りが見えていないような、自分しか見ていないような、そんな気がする。自分しか見えないと言うことは、即ち心に余裕が少しもないのだ。

「味方が誰もいないのでは、いくら青峰くんが強いからって潰れちゃいますから」

 桃井さんはとうとう黙ってしまった。私に説得役をさせることは諦めてくれたのだろう。「桃井さんは桃井さんのやり方で良いと思います」と言うと、少し涙ぐんで頭を下げてまた髪を揺らしながら図書室を出て行った。…マネージャーも大変そうだ。

「誰が潰れるってんだよ」
「…いつからいたの」

 窓の外から、少々不機嫌そうな声がする。小さく溜め息をついて外を見てみると、そこには当然のように青峰くんがいた。随分遅い登校だ。バツの悪そうな顔をして一度私を見るけれど、また顔を背ける。やはり、彼にも思う所は色々あるらしい。何も考えずに学校に通っている訳ではないのだから。
 苦笑いしながら、そっぽ向く青峰くんの頭を撫でてやると、いつもだったら嫌がって腕を払って来るのに、今日はそんな素振りは見せない。まるでおっきい子どもみたいだと思うと、なんだか微笑ましい。いつもどこか年上の私に対しても尊大な態度をとる青峰くんだけど、こうして不機嫌になった途端に年相応になる。そういう青峰くんも、まあ、嫌いじゃない。

「さつきのやつ、余計なお世話だろーが」
「良い幼馴染じゃない。大切にしないと駄目ですよ」
「この間は拗ねてた癖にどの口が言うんだよ」
「大人は切り替えが早いんです」
「バーカ」

 すぐそっち行くから待ってろよ。まるで捨て台詞のように言い残し、図書室の窓の外を去る。青峰くんのその言葉が、どっちの意味を含んでいるのかまでは、さすがに分からなかった。
 けれど、困る。余裕ぶって見せたけれど、時々そういう言葉でどきりとさせられるから私なんてまだまだ口先だけの大人なのだ。私が大人になりきるのが先か、青峰くんが私に追い付くのが先か。それこそ誰にも分からないことなのだろう。








  

(2013/03/20)