愛するほどに手放さなければならないのはなんでだろう。 泣きたい気持ちで縋る俺を、柔らかく微笑んだまま抱き締める彼女。そんな俺の頭上で、彼女はぽつりとそう零した。無論俺に答えられるわけがなく、押し黙ってしまえば続けて「ごめんね」と彼女は言った。 そんな言葉を言わせたい訳ではない。そんな哀しそうな顔をさせたい訳でもない。彼女が迷うほどに、彼女を守らねばと強く思う気持ちは同情や憐れみから来るものではない。強がって虚勢で自己を守る彼女は、きっと彼女が自分で思うほど強くはなく、一人で立っていられる訳でもない。魔女だからと言ってそれは人間と変わらないのだ。いくらその身に毒が流れていようと彼女の身体は華奢で、声の震えや零す涙は弱さを表す証にも違いない。 「ねぇ。やっぱりワタシ、ハジメとの約束守れない」 「約束?」 「もう魔女の血を使わないって約束」 「何、」 「命を削っても、死が近付いても、ワタシがしないといけないことなの。前にも言ったけど、そうじゃないとワタシが魔女である意味がなくなってしまう」 「それは…」 「この血でしか救えない命もある。それは生かすって意味じゃなく、死で以って救うってことだよ」 ゆっくりと弱い力で俺を押し返すと、俺の頬に冷たい右手をあてた。出会った頃よりも低くなった体温に、何か得体の知れない危機感を本能的に覚える。その指が輪郭をなぞると、次は両手で頬を包み、顔を引き寄せる。互いの額がぶつかれば、彼女の長い睫毛で縁取られた瞼が閉じられた。 海色の眼は一体何を見ているのだろう。何を思い、どんな明日を描いているのだろう。彼女は次々にこちらの考えていることを見透かして行くのに、彼女のことはまるで分からない。冷たい手の平から彼女の感情が流れ込んで来る訳でもない。何か分かったとしても、それが次の日には通用しない。次から次へと姿を変える彼女の思考。それはまるで一瞬にして形を変えて行く雲のようだ。 だがそんな彼女の言葉に嘘など一つもないというのに、それはただ事実を述べているだけで、真意を覗くことは少しもできない。それが恐らくは彼女なりの線引きなのだろう。それも俺からすれば煩わしいだけだというのに、近付きたくとも越えられない“魔女の領域”だった。 「ワタシがそうしたいの。できるだけ他の誰かが剣を振るわなくていいように。仲間が仲間を処分せずにいいように。ハジメが仲間を斬って傷付かずに済むように。だって誰かがしないとハジメはすぐ無茶しちゃうんだもの」 「…俺は」 「うん?」 「俺は、あんたに血を流して欲しくなかった」 「ハジメは優しいからね」 違う、それは違うのだ。誰に対しても無条件にそのようなことは思わない。彼女だからだ。彼女だからそう思うのに、続く言葉が出て来ない。伝えたい言葉が喉に突っかかって出て来ない。 余計な言葉を必要としない場所で生きて来た俺にとって、彼女のようによく喋る人物を前には上手く切り返せないことも多々あった。けれど肝心な時に言葉にならないのをもどかしく思うことも、彼女に出会わなければ知らなかった。彼女は「大丈夫だよ」「気にしなくていいよ」と笑っていたが、それを恥じたり悔やんだりすることも、彼女と過ごして初めて知った感情だったのだ。 今もそうだ。伝えたいこと、言わなければならないことは山ほどあるというのに、それらが頭の中で纏まってくれない。彼女にも俺にも、もう時間がないというのに。 「ハジメのこと、甘いって言ったけど間違いだね。ハジメは優しいんだ」 「そのようなことはない」 「ううん、あるよ。だから、ね、そうやって泣きそうになってる」 額が離れると、目元をなぞるように親指で優しく擦る。そうして、困ったように笑った。 優しいのは彼女の方だ。こんなにも細い腕で、ふらふらになりながら、それでもまだ彼女自身を剣としてその身を戦いに投じる。殺めることで救うというのは、確かに彼女にしかできないことなのかも知れない。人と同じ姿をしながら、人ではない。その矛盾や苦しみ、自己への嫌悪感は俺たち人である身が簡単に理解できるものではなく、彼女ら自身も言い表すことのできることではないのだ。 それでも少しでも分かりたいと思うのは傲慢だろうか。…それすら聞くことができず、今度は俺から彼女を抱き寄せる。月の色をした髪を、細い身体とその体温を覚えておくために強く、強く。 「言いたいことが、まとまらぬ」 「ふふ、ハジメらしいよ」 「だが、二つだけある」 「二つ?」 「あんたに思うように生きて欲しいことと、俺の手の届く範囲にいて欲しいことだ。…矛盾していると、あんたは笑うだろう」 「…笑わない」 嬉しい、という小さな声が腕の中から聞こえる。それと共に、俺の背中に手が回された。まるで迷うかのように、そっとだ。 「ハジメにそんな風に思ってもらえたなら幸せだね」 「…………」 「ねえ、だからワタシはやめないよ。この血を使うことをやめない。それが魔女である意味になる、生きた証明になる、魔女になったことが間違いじゃなかったんだって確かめられる。復讐に生きたんじゃないって、それがワタシへの救いになるの」 「俺は、重荷か」 「違う、ハジメの優しさはワタシには勿体ないのよ。贅沢すぎる。だから他の人に分けてあげて。その優しさを必要としている人はきっといるから」 でも、と呟くと、彼女はあかい唇で俺のそれを塞いだ。 「…魔女、」 「今日だけでいい。今日だけ一緒にいさせて欲しい」 返事をする代わりに、再度俺から彼女に口接ける。すると、先に彼女からした癖に、大きな目を益々見開いて俺を見た。何か大変なものでも見たかのようだ。けれど次の瞬間には嬉しそうに笑って受け入れる。 何度も何度も同じことを繰り返した。まだ足りない、まだ欲しいと、互いに飽きる程に。それで彼女を止められるなら、心変わりしてくれるなら、それで良かった。 だが、心のどこかでは既に予感はしていた。覚悟もしていた。思うほどすり抜けて行くことを、彼女が初めて俺に縋った意味を、息つく間もなく唇を重ねた行為から予想はついていた。 翌朝、魔女は忽然と姿を消した。 (2010/07/25) (2010/8/2 加筆修正) ← ◇ → |