歯の食い込む感触がする。痛いというよりも、それは奇妙な感覚だった。歯の突き立てられた首筋から、血液以外の何かも同時に吸い取られているような錯覚にさえ陥る。思わずシーツを掻く指先。はそれに気付いているのか否か、斎藤の首に顔を埋め、強く望んでいた赤を啜る。それを飲み下す音すら、こんなにも密着していればいやに大きく聞こえてしまう。何とも言い表すことのできない感覚に全身を支配されながら、何の痛みもないことに、の歯には麻酔か何かが仕込まれているのかとぼんやり思った。
 ほんの数秒だったかも知れない、いや実は何分も経ったのかも知れない。その間に、肩に置かれていた手は、離すまいと斎藤の背に回された。痺れるような奇妙な感覚に襲われている斎藤。の手に応えるかのように、斎藤もまた片手をの後頭部に差し込み、そしてそのまま抱き上げた。驚くほど抵抗のない、軽い身体。抵抗をしない彼女は、力任せに抱き締められるがままだ。

「っは、、……っ」
「ん、ぅ……」

 声を漏らすのを堪えていたが、我慢できずに名前を呼べば離れる唇。瞬間、血色のよくなったの顔が映り、やはりただの体調不良ではなかったことを理解させられた。口の端に付着した赤を拭ってやれば、その指を同じく赤い舌が舐めとる。そして、遅れて痛みの走った首筋にも再度顔を埋め、傷口を舐め上げる。熱い舌の感覚に思わず小さく息を吐き出すと、「やはり痛みますか」と聞いて来る。そうではないとは言えず、少しだけだ、と答えた。どうしてかは感覚がずれている気がする。気のある相手にこのようなことをされて何も思わない人間がいるだろうか。
 吸血による急激な循環血液量の減少で眩暈がし、斎藤はの隣に体を横たえた。反対には血色がよくなり、斎藤の顔を覗き込んだ。影のかかる表情にはもう苦痛などはなく、あの腹立たしいほどに落ち着きのある冷静さを取り戻している。そのことに安堵を覚え、斎藤はに腕を伸ばすと頭を抱え込み腕の中に閉じ込めた。

「斎藤先輩?」
「あんたは少し、恥じらいを持て」
「何のことですか」
……」

 やはり分かっていないようだ。は生きるために行った行為ではあるが、彼女の赤い舌が首を這う感覚を思い出すと何かおかしな気分になった。それなのに平然とする。変な気分になっている自分がおかしいのだろうか、そんなことを思いながら斎藤はを抱き締める。まだ少し歯を突き立てられた部位は痛むが、彼女の歯には麻酔か何かが仕込まれているかのように、思ったほど強い痛みを感じない。麻痺している訳ではないだろう、あんなにもはっきりとした感触を味わったのだから。
 言葉もなくただ抱き合っている空間は、思えば不思議なものだった。と出会った瞬間は、きっと相容れないだろうと思っていた。会って早々に訳の分からないことを言われ、彼女の命を斎藤が握っていると思えば恐怖さえ感じた。それなのに今、愛おしむようにを抱き締める腕。彼女の声を、呼吸を、心拍を、体温を確認して安心する気持ち。案外、彼女を受け入れるために大層な理由などいらないのかも知れない。生きて欲しいという単純な思いから始まったのだから。

「…こんな身体なのだと知ってから、私はもう死んでいるのも同じだと思っていました」
「…………」
「けれど、生きているんですね」

 数日前にが斎藤に言った言葉を、今度は彼女自身に対して投げかける。あの時、は自分はもう生きていないかのような発言をしていた。体の不調から死期を悟っていたのだろう。だけど今、確かに生を感じさせる言葉を呟いた。ぽつりと小さな声で、けれど間違いなく。小さく進みだしたを守りたいと、愛しいと思う気持ちが膨らんで行く。何か言葉で返せる気がせず、斎藤はを抱き締める力を強くした。「苦しいです、先輩」「ああ」「だから、苦しいですって…」「分かっている」分かっているけれど、離したくない。どうしてか、こんなにも強く抱き締めていたいと思う気持ちが消えてくれない。それはまるで身を捩るを閉じ込めるみたいだ。
 を生かせるのはもう自分しかいない。薬も効かない、他の誰の血も口にしない。自分が守らなければ。初めて愛しいなんて思った相手だ、吸血の際の痛みなんて、これまでが抱えて来た物に比べれば何ともない。

「斎藤先輩」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「…いや」

 けれど考えは浅かった。これで解決したのだと、は助かるのだと、斎藤はそう思い込んでいた。




***




 血の匂いがする。下校のため教室を出てすぐ、すれ違いざまにそのようなことをクラスメートに言われた。に初めて血を分けたあの日から、三日。不思議なことに綺麗に塞がった傷口は、痛みは愚か痕さえ残っていない。それなのに血のにおいがするとはどういうことか。いや、そもそも普通の人間がそのような言葉を口にするはずがない。のこともあって斎藤はどこか恐ろしくなって足を止めれて振り向けば、向こうも足を止め、こちらへ向かって反身を翻す。彼女とは昨年に続き同じクラスになったが、特別親しい訳でも何でもない。

「大丈夫、その内にさんも“上手く”できるようになるよ」
「何のことだ」
「痛かったでしょう?」

 ここ、と言いながら、彼女は指先で自身の首をとん、と指し示した。何を考えているのか、何が目的なのか分からず斎藤は口を閉ざす。すると彼女はくすりと笑う。まるで全てお見通しだとでも言うかのように。体ごとこちらを向いたかと思えば、ゆっくりと近付き、肩に手を置く。そして耳元で囁いた。魔女の血の浄化はそんなに簡単じゃない、と。…やはりのことを言われている。生唾を飲み込んで彼女の方をちらりと見れば、やはり思惑の図れない笑みを浮かべている。正体の分からない以上、彼女の発言に肯定も否定もすることは危険だ。沈黙を貫いてもシラを切っても、彼女は全て把握しているような気さえするのだ。

さんが大切なら目を離さないことね。あの子、錠剤も点滴も効かなくなって来てる」
「…………」
「今だって、どこで苦しんでいるか分からないよ?」

 近付けた顔を離し、またくるりと背を向けて歩いて行く。暫く茫然とその後ろ姿を見つめていたが、彼女の言葉を思い出してはっとした。まるで、今まさにに危機が迫っているかのような口ぶりに、焦燥感が斎藤を襲う。…探さなければ。そう思っても、放課後の今、彼女の居場所など分からない。教室か、保健室か、いや、それでは体調が悪いと人に見つかってしまう。斎藤と言う血液の供給源の見つかった今、は山南に頼れないだろう。だとすれば、どこだ。が身を潜め、一人で居られる場所はこの学校のどこにある。

(……会議室)

 ぐったりとしたを見つけた場所。赤い錠剤を見た場所。まずはそこを確認するしかない。そこが駄目なら違う場所だ。人の寄りつかない準備室、倉庫、空き教室、とにかく探せばいい。こんな時にの連絡先の一つも知らない自分を恨んだ。普通とは違う関係、順序、だからすっかり抜け落ちていたのだ、彼女の連絡先など。毎日学校に来ればきっと顔を合わせる、そんな考えに甘えていた。けれど甘かった。会いたい時に、会わなければならない状況の時に必ずしも会えるとは限らないのだ。それはこちらからは勿論、彼女が斎藤を必要としている時、SOSを発信しなければならない時だ。
 血の毒は簡単ではない、そんなことの状態を見て来て知っているつもりだった。けれど、生まれて十六年、その毒にじわじわと侵され続けた身体がたった一度の吸血で正常になるはずがない。それに気付けなかった自分のなんと愚かなことか。あまりに浅はかだった。あの一度きりで何を安心してしまっていたのだろう。あそこまでを苦しめる毒が、簡単に引くはずがないというのに。きっと今もまたは苦しんでいる、その毒に死を予感しているに違いない。
 会議室へ急ぎ走る。すれ違う教師が走るなとか何とか言っていた気がするが、そんなもの気にしている暇はない。一刻も早くを見つけなければ。を確かめなければ。…ようやく会議室に辿り着き、ドアに手をかければ、常ならば鍵の掛かっているはずのそれは簡単に開いた。そして、部屋の奥に、壁に凭れてぐったりとしているを見つけた。

!」

 乱暴にドアを閉め、に駆け寄る斎藤。しゃがんで彼女の顔を覗き込めば、まだ辛そうな顔をしている。しかし以前ほど苦しそうな様子はなく、呼吸も落ち着いているようだ。けれど、重そうに顔を上げたの口元を見て、斎藤は目を見開いた。

「…誰の、血を飲んだ?」
「ごめんなさい…」

 僅かだが口の端に赤い色が付着している。どう考えても誰かの血液としか思えなかった。あのクラスメート以外にまだの事情を知る人物がいるというのか。一体、自分が来るまでの間に何があったと言うのか。様々な疑問が斎藤の頭を駆け巡り、今すぐにでも問いたい気持ちになる。けれど同時にそれどころではないということも理解した。はまだ苦しみの渦中にある。だが、だとすればなぜもっと早く自分に助けを求めなかったのか。自分の血でいいならいくらでも飲んで構わないと、そう確かに伝えたのに。

(いや…)

 それはただの責任転嫁だ。それまで只管に拒み続けた自分に、が素直にいくらでも甘えられる訳がなかった。斎藤から声をかけるべきだった、苦しむを察してやるべきだったのだ。が今、目の前で苦しんでいるのは自分がそれを怠ったせい。…斎藤は鞄の中からペンケースを取り出し、カッターナイフを取り出す。今のには歯を突き立てる余力もなさそうだ。それなら自分で血を出すしかない。少しだけカッターの刃を出すと、それを手のひらに突き立て、横に一閃する。じわりと滲み、浮かんで来る血液。手のひらをに差し出せば、一瞬顔を歪めたものの、大人しく舌を這わす。
 やがて「ごめんなさい」と零したに、また彼女を傷付けてしまったのだと酷く悔いた。








  

(2011/6/20)