おかしい。斎藤がさすがにそう感じたのは、学校内でと会わなくなり四日目のことだった。これだけ学校が広ければ会わない日があってもおかしくはないと、最初はそう思っていた。しかしなぜだか校内にがいる気がしないと感じたのは昨日、今日はとうとう“何かおかしい”と思ったのだ。嫌な胸騒ぎがして、斎藤は昼休みに一年教室のある階へと足を向けた。しかしやはり、どこにも彼女の気配を感じられない。教室にいるいないではない、まるきりこの敷地内にいないのだ。
 珍しくもない漆黒の髪と目。けれどなぜかの存在は独特の雰囲気を醸し出していて、周りとは一線を画していた。容姿だけ言えば地味な方に分類されるのだろう。しかし彼女の纏う雰囲気がただそこに留めてはいなかった。そんなを感じられないとはどういうことか。斎藤の心拍数は焦り出す。…授業はあと二時間、それさえ耐えれば委員会や部活を欠席する理由などいくらでも考えつく。だが気が気でない。あと二時間を耐えられる自信がない。本音を言うなら今すぐにでもを探しに飛び出して行きたい。

(……いや、何故俺がそのようなことを)

 頭を振って自分の考えを否定し、掻き消す。しかしそれ以上にのことを考えてしまう、少しの間でも忘れてやることができない。今すぐの存在を確かめたい。なぜだかは分からない。最後にと別れた時に、彼女の様子がおかしかったからか。山南から彼女の状態やおいたちを聞いてしまったからか。…いや、きっとどれも違う。ある一つの可能性がふと浮かび上がり、はっとして斎藤は片手で口元を覆った。
 ただの後輩であれば、何でもなければ、こんなにもを気にかけるはずがない。薄情と言われるかも知れないが、斎藤はそういう人間だ。胸がざわめくのは、間違いない、自分は強くを思っている。あの目を見ると逃げたくなることも、強く拒もうと思えば引き剥がすことのできたからのキスも、全ての理由がに惹かれているという所に繋がっている。
 彼女を探さなければならない。彼女に会わなければならない。焦る気持ちが段々と大きくなって行く。学校に来ていないなら自宅か。…そこまで考えて、そういえばこの学校には彼女の兄、山南がいたことを思い出す。山南なら間違いなくのことを知っているはずだ。保健室へ向かおうと踵を返せば、まさに目的の人物がそこにいた。

「斎藤君、話があります」
「…さんの、ことですか」
「そうです」

 神妙な面持ちで山南は斎藤と向かい合う。ただ事ではないことはそれだけで察することができた。あれだけ体調の悪かっただ、何かあったに違いない。のことかと聞いた斎藤に即答した山南。しかしその続きをなかなか言おうとしない。やがて躊躇いがちに口を開いた。

「あの子に、斎藤君の血を分け与えてやって下さい」

 この瞬間、に危機が迫っていることを確信した。山南であればに輸液なり薬なりを与えることができる。その山南が斎藤に助けを求めて来たということは、もう薬では抑えが利かなくなって来ているのだろう。この間だってあんなにも苦しそうだったのだ、今はもっと苦しんでいるに違いない。そのを助けてあげられるとしたら、今やもう自分だけ。誰の血も拒むが、唯一受け入れる可能性のあるのが自分なのだ。何とかしてを救ってやりたい、自分がを生かしてやりたい。
 山南が頭を下げるまでもなく、斎藤はそれを選ぼうとしていた。が気持ちを欲しがるなら気持ちごと、彼女に分け与えてやりたいと。勿論です、と返事をすれば、差し出されたのは家の鍵と住所を書いたメモ。それらを半ば奪い取るように手にすると、形振り構わず学校を飛び出す。一刻も早くに会いたい、会って無事を確かめたい。それだけが斎藤を駆り立てる。心も、血も、の望むものなら与えよう。それが自分にできる唯一のことだというのなら。




***




「敬助君から話は聞いてるよ。に会ってやってくれ」

 の家に着くと、彼女の父だという男性が迎えてくれた。優しげな風貌のの父は、とはがらりと雰囲気の違う人物だった。だとすればは母親似なのだろうか。どちらかと言えば、山南の方が彼に似ている気がする。まだ乱れている呼吸を整えながら、斎藤はぼんやりとそんなことを思った。息も絶え絶えに「お願いします」と言えば、快く中へ招き入れてくれる。結局、山南に渡された鍵は使わずに済んだ。実はいざの家を前にして、この鍵を使うことに躊躇っていたのだ。
 緊張しながら廊下を進み、階段を上がる。の部屋は二階にあった。山南がこの家で共に暮らすようになったのはまだ二、三年ほど前からだと言うが、それからほどなくしての母は亡くなったそうだ。この広い家に三人で暮らすのは、どこか寂しい気がした。…彼女の父がの部屋のドアを開ける。「どうぞ」と言われてその部屋に踏み込み、ゆっくりとベッドに横たわっているに近付いた。苦しそうに荒い呼吸を繰り返す。斎藤が来るまで彼は付きっきりだったのだろう、ベッドの傍の小さなテーブルには、仕事中のノートパソコンが置かれていた。

「もう点滴も嫌がって、針を刺させてくれないんだよ。この子にはこの子なりの考えがあるんだろうけどね」

 置いて行かれるのはごめんなんだ、と彼は苦笑いする。その顔はどこか疲れていて、力のない笑みだった。妻に先立たれ、更には娘も、なんて考えたくもないだろう。はそんな父の気持ちも知った上でこんなことをしているのだろうか。何か母のために盲目的になっていやしないだろうか。唇を噛み締めてを見下ろす斎藤。彼女を思っているのは、何も彼女の母だけではない。父も、山南もそうだ。こんな苦しそうなを見て心を痛め、無力感に打ちひしがれているのは他の誰でもない、彼ら二人である。

「これから会社に呼ばれてて家を空けないといけないんだ。申し訳ないけれどの、」
「ここに居ます。さんの傍に居させて下さい」
「…助かるよ、ありがとう」

 斎藤を残して父が出て行くと、斎藤はベッドに腰掛けた。の頬を手背で撫でると、ぴくりと目元が動く。ゆるゆると瞼が持ち上がり、虚ろな目が開かれた。最初は天井をぼうっと見つめていたが、やがてゆっくりと視線だけが彷徨い、斎藤を捉える。しかし驚きもせず、「斎藤先輩…」と掠れた声が漏れた。

、あんたは生きるべきだ」
「先輩……?」
「俺の血でいいならいくらでも飲んで構わん。だから、生きてくれ」

 僅かに目を瞠る。そんなの、何かを言いかけて薄く開かれた唇に斎藤は自分のそれを重ねる。頬の冷たさに反して口腔はまだ熱を持っている。あの日、にされたように舌を絡ませ、深く深く口付ける。突然のことには斎藤の肩を押し返そうと両手を伸ばしたが、力が入らないらしく肩を掴めず宛がわれただけ。だが唾液が混ざり、舌の絡まり合う音がする度に、の指先に僅かに力が籠るのを斎藤は感じる。息が切れそうになれば一瞬離れて、けれどすぐにまた唇を重ねる。吸い寄せられるように、貪るように繰り返した。それはまるで生かすつもりが、の呼吸をも奪おうとしているかのようだ。そうしている内に段々と口腔内も吐息も熱を持ち、今にも死にそうだったの蒼白い頬に赤が差す。それに安堵した斎藤は、ようやくの唇を離してやった。

「っは、ぁ……っ、いきな、り…ッ」
「ん……心配かけた、あんたが悪い…」

 熱を持った頬を撫でれば、ぎゅっと目を瞑って顔を背ける。彼女のこんな表情を見る日が来るなど思いもしなかった。崩れない無表情、違う表情をみたのはただの一回だけ。それだって泣きそうな顔だったのだ。羞恥と困惑が混じって震える睫毛が、彼女の迷いを表しているようだった。自分からはいくらでも仕掛けることをする癖に、されることにこれだけ抵抗を示すと言うのもおかしな話である。再度正面を向かせて触れるだけのキスをする。

「どこがいい。指か、腕か、それとも他のどこかか」
「……首」

 ぎこちなく右腕を伸ばすと、ひやりとした手が首筋に宛がわれる。どくん、どくん、と頸動脈が脈打つのを感じた。制服のジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めてシャツのボタンを外せば、剥き出しになる頸部。小さな手が血管を探り当てるようにそこを撫でる。「…良いんですか」「俺がそうしたい」「一回きりじゃないんですよ」「分かっている」…そんなやり取りをしたが、それより何より、早く飲んでくれと思う。あれほど山南が切迫した様子だったのだ、一刻も早く回復して欲しい。この体に流れる血が、それだけでを生かすことができると言うなら、何を躊躇うことがあるのだろうか。
 今度こそ斎藤の肩に両手を掛けると、は自身の方へ斎藤を引っ張る。彼女の顔の両脇に手を付いて体を安定させ、斎藤も身を近付ける。首筋に顔を埋めて、さっきまで指でなぞっていた部分を一舐めした。そして次に何か固いものが当たる。保健室で押し倒された時とは違う、鋭い何か。深く口接けた時にはなかったそれが、皮膚に付き立てられる。次の瞬間、痛みと共にぶつりという音を伴って、皮膚が破れた気がした。








  

(2011/5/23)