置いてきぼりで回る

 会社の大小で言えば、私の家が格下なのはよく分かっている。この婚約が不釣り合いなことも、周りが納得しないであろうことも、よく分かっているのだ。そういう外野の声を受け流して、聞こえないふりをして全て受容しなければならないことも。私はまだ、私でさえも納得させられていないのに、直接どうしようもない現実を叩き付けられることに、酷く傷付いた。

「服部、そういう利害だけで決めた婚約ではない」
「ほーん。結婚なんてまるで興味なかった桧山がねえ」
「あ、あの、お仕事のようでしたら私、そろそろ退散致しますので」
「そうだねえ、社長令嬢の耳に入れるような話はないだろうから」
「服部!」

 突き刺さった言葉に泣きそうになるのをぐっと堪えて、桧山さんの方を向く。できるだけ、いつも通りの顔で。

「桧山さん、私なら大丈夫ですから。お仕事の方を優先なさって下さい」
「よく教育された令嬢だこと」
「あの、お邪魔しました」

 逃げるように部屋を出る。買ったばかりのワンピースに、お気に入りの靴、メイクだって仕事の日よりずっと時間をかけた。桧山さんに、会えると思って。婚約の話から出てから、私は変だ。色んな気持ちを行ったり来たりしている。
 桧山さんは優しい。内心、どう思っているかは分からないけれど、戸惑う私にいつも気遣った言葉をかけてくれる。婚約指輪を渡された時も、先日食事に行った時も、私とのことをただの政略結婚にしないでおこうとしてくれている。それを薄々とではなく、はっきり感じている。そんな彼を撥ね退けているのは私だし、納得していないのも覚悟できていないのもきっと私の方。距離を縮めようとしてくれている桧山さんに向き合うことができていないのは私だ。だから、さっきみたいな言い方をされた時に、何も言えなくなってしまう。悔しい―――立ち止まって、唇を噛んだ。

嬢!」

 走って来る足音が廊下に響き、振り返ると桧山さんがいた。私に追いつくと、私の肩を掴む。必死とも言えるような様子で、「やはり門まで送らせてくれ」と言う。

「でも、服部さんが」
「少しくらい待たせても構わない」

 断ることなんてできなくて、はい、と返事をする。すると、ほっとしたような表情を見せる。なぜ、ここまでしてくれるのだろう。あの場面で、仕事を優先されて落ち込む私ではない。恋人同士ならいざ知らず、私たちはまだそういう仲ではないのだ。
 外に出ると、夕立の来そうな空をしていた。灰色の重い雲が迫って来ている。先ほどまであんなにもからりと晴れていたのが嘘みたいだ。家に着くまで持ちそうな空模様ではないため、家まで送らせると言ってくれた桧山さんの言葉に甘えることにした。
 本当は今日、もっといろんな話をするはずだったのに。ちゃんと向き合えば、ちゃんと話せば、少しはこんなどうしようもない私の気持ちも整理できると思ったのに。今日は、自由な時間の少ない桧山さんが、私のためにと割いてくれた休日だった。私だって、こんな暗い気持ちで帰ることになるなんて思わなかった。不完全燃焼なんて言葉では足りないほど、色んなものが胸につっかえて苦しい。いつまでこんな気持ちで婚約者をしなければならないのだろう。本来、幸せなことのはずなのに。
 お互い口数も少なく、庭を出てしまう。門の外には使用人の方が運転する車が待っていた。部屋を出てから明るく表情の作れない私にも、最後に桧山さんはつとめて優しく声をかけてくれる。私を車の後部座席へ誘導すると、婚約指輪の光る左手を取った。

「またぜひ来てくれ。今度は嬢の話ももっと聞きたい」
「私の話…?」
「ああ、時間を気にせずにゆっくりと」

 それではまた会社で―――そう言って桧山さんが車のドアを閉める。最後まで私は笑えなかった。



***



 結局、あの後桧山さんから連絡はなかった。そのまま休日は終わり、またいつもと同じ月曜が来る。お盆休みの近い社内は、また何かと慌ただしくなっている。領収書、納付書、請求書など、様々な数字と睨めっこしていると、もう午前が終わろうとしていた。
 経理でこれだけピリピリしているのだから、トップである桧山さんはもっと忙しいことだろう。私なんかのことで気を揉ませるわけには行かない。自分の気持ちの問題なのだから、自分でケリをつけなければ。諦めなければならないことも、きっとこれからだってたくさんある。

(諦めて結婚か……)

 溜め息をついて、パソコン画面に映った保存ボタンを押した。キリがいいので私も昼休憩に入ろうと思ったのだが、内線電話が鳴る。

「はい、経理部のです」
「丁度良かった、桧山だ。すぐに社長室に来て欲しい」
「は、はあ……」

 珍しく急かすように早口で要件を言うと、電話はすぐに切れた。何かまずいことでもあったのだろうか。けれど、経理部の責任者は今席を外している。業務のことだと私では対応しきれないことがあるのだが―――不安に思いながら、社長室へと急いだ。どこにあるかは知っているけれど、そこに足を踏み入れるのは初めてだ。いろんな緊張が混ざり合いながら、経理部の入り口とは違う重厚な作りの扉の前に立った。冷汗が背中を伝う。呼ばれた理由を予測することもできず、震える手で扉を叩いた。すると、返事が聞こえるより先に、扉が開く。桧山さんだった。

「すまない、昼休み中だったか」
「い、いえ、大丈夫です。あの、経理の責任者なら全員席を外していて…」
「いや、仕事のことではない」
「え?」
嬢との婚約の件、どこかから漏れた」
「…………え?」

 まだ、公にされていなかったはずの話。桧山家と家の間での話だったはず。昨日服部さんが知っていたのは不思議だったけれど、身内なら仕方ないだろう。会社にはまだ何の発表もしていない。私だって、友人も言っていないのに。

「…桧山さんは、どなたかに…?」
「大学時代からのごく親しい友人だけだ」
「…………」
「だが、誓って外に漏らすような人間ではない」
「じゃあ、一体どこから」

 疑いたくないけれど、誰かを疑わなくてはならない。それに、漏れたとなれば正式に発表しなければならないはず。まだ、こんなにも気持ちが揺れているのに。
 何を言えばいいのか分からなくて、これ以上言葉が出て来なかった。桧山さんが――社長が婚約を公表してしまえば、相手のことも公になる。どうしたって一般人女性では通らないのだ。いずれ両グループに知れ渡ることだとしても、まだ早過ぎる。この会社で私が築き上げて来た経理部のという人間が、グループの社長の娘で桧山社長の婚約者になってしまう。仕事がやりにくくなるに違いないのだ。桧山さんが嫌だとか、そういう話ではないのだ。なぜ、関係ない人間に私の人生を左右されなければならないのか、憤りで涙が溢れて来た。責めるべきは桧山さんじゃない、だから目の前にいる人物に声を荒げることすらできないのだ。

嬢、」
「どうして、私だったんですか」
「…………」
「うちとの条件が一番良かったって言いました。でも、そんなの私は関係ありません」
「…ああ」
「私は、やっぱり政略結婚はごめんです」

 普段はチェーンに通して首からかけていた婚約指輪を外す。それを突き出すと、桧山さんは流石に目を丸くした。けれどそれを受け取ってはくれず、指輪を握り締めた手を、桧山さんの手がそっと包む。そしてそのまま、私はそっと抱き締められた。

「すまない、婚約解消だけはしてやれない」

 ひどい、と、その一言を吐き出すだけで精いっぱいだった。返そうとした婚約指輪も受け取ってもらえず、まして婚約解消など。何もかもが私を置いて進んで行ってしまう。これから、もう何一つ自分の思い通りに行くことなんてないのではないだろうか。これまで家の反対を押し切ってばかり来た、そのツケが今回って来たというのだろうか。明日からのことを考えると、もう何も考える気にならない。その日私は、初めて仕事を早退した。