飲み下せない

 先日の約束通り、直近の休日に私は桧山さんの自宅にお邪魔していた。想像以上に大きな邸宅に、門を前にして早々に目眩がする。私の自宅も、都内にしてはそれなりに大きい。祖父母夫婦と私たち親子の二世帯住宅だが、それぞれが一室ずつ持ち、なお余る部屋があるほど。けれど、桧山さんのお屋敷は比にならない。まさしくお屋敷と呼ぶに相応しい。真夏らしい日差しのせいではなく、間違いなく世界の違いにくらくらした。

「どうした嬢、入らないのか」
「い、いえ、入ります…」
「自慢の庭だ、気に入ってもらえると嬉しい。さあ、日傘を」

 そう言ってさりげなく私の手を取りエスコートしてくれる。流れるような動作に、それはもう身に染み付いたものなのだろうなと思った。きっと私なんかよりもずっと多くのパーティーなどに顔を出しているし、そこで女性を相手することもきっとあったはずだ。こんな動作一つにどぎまぎしてしまう私などではなく、エスコートされ慣れている桧山さんと似合いの女性との出会いも、勿論あったことだろう。家柄も教養も容姿も申し分ない女性が。それら全てを退けて来たと思うと、社長業をしている割に、結婚にあまり価値を見出していなかったのだろうか。寧ろ、社長だからだろうか。
 案内されるがままについて行くと、確かに桧山さんが自賛するだけの広大な庭が広がっていた。隅々まで手が行き届いており、色とりどりの花が咲き誇っている。桧山さん曰く、時間さえあれば自身でも庭の手入れをしているのだそうで、真夏の暑さも忘れて誇らしげにひとつひとつ花の説明を重ねて行く。その中でも一際目を引いたのは、背も高く育った向日葵だった。

「これだけ大きく育てるの、大変でしょう…!」
「毎年試行錯誤している。今年は上手く行ったな」
「私よりも大きい向日葵なんて初めて見たわ!」
「ああ、嬢が小さく見えるな」
「ねえ、あの、……あの?」

 思わず興奮して桧山さんを振り返ると、おかしそうに口元を押さえて笑っている。途端に恥ずかしさを覚えて、次に言いかけた言葉を忘れてしまった。そんなにおかしかっただろうか。堪え切れないほど笑われるなんて思っていなかった私は、つい俯いてしまう。子どもっぽいと思われただろうか。きっと本物の社長令嬢ならこんなことではしゃぎはしないのだ。いずれ結婚する時が来たら、もっと落ち着いた、社長夫人然とした雰囲気が求められるのだろうか。到底無理な気がしてならない。やはり私には、過ぎた役目なのかも知れない。
 やがて、落ち着いた様子で桧山さんは再び私の手を取る。

「そろそろ中へ。今日のために仕入れた紅茶がある。水出しにしても美味しいそうだ」
「え、ええ…」

 暑さなんて忘れてしまっていたように思う。プリザーブドフラワーを作ることが趣味な割に、さほど花自体に詳しくない私には、桧山さんの説明はどれも興味深いものだったのだ。どの花も綺麗に手入れをされていて、見ていると新しい作品のアイディアが次々と浮かんで来るようだった。いや、そこで花を分けて欲しいなどという訳ではないのだけれど。

「新鮮だな」
「え?」

 私を邸宅の中へ招き入れて、桧山さんはぽつりと呟いた。庭と同じく、一人では迷ってしまいそうな広さに、思わずきょろきょろしてしまいそうになる。そんな私を現実に引き戻した声だった。そして、恐らく客間であろう一室に通される。そこで桧山さんは話を続けた。

「会社で見る時と随分雰囲気が違う。プライベートの嬢を知る者は社内には少ないのだろう?」
「そ、そうですね…飲み会も仕事終わりが多いですから」
「飲み会」
「居酒屋におしゃれしていくのはちょっと…」
「居酒屋」

 まるで片言のように私の言葉を繰り返し、私を振り返る。ああ、そうだ、こんな立派な邸宅に住む社長ともなれば、平社員の行くような居酒屋なんて行くはずがなかった。恐らく、我々の飲み会も居酒屋も、イメージがついていないのだろう。頭の上にクエスチョンマークが浮かんで見えるようだ。慌ててフォローするように両手を振って話を繋げた。

「しゃ、社長は居酒屋で飲み会なんて参加しませんよね!」
嬢、今日はお互い完全なプライベートだ。社長だなんて呼ばないでくれ」
「…………」
「ああ、いや、悪気がないのは分かっている。すまない、怒った訳ではない」

 なんだか、今日は驚くことばかりだ。この大きなお家から、桧山さんの言動まで。語気も強く言われたことよりも、言われた内容の方に私はどう返せばいいのか分からなかった。確かに今日は、これまでで一番桧山さんのプライベートに踏み込んでいる。外でのお食事などは、行きつけのお店と言えど最もプライベートな空間ではない。ここは、桧山さんの自宅は、社長でも何でもない、桧山貴臣という一人の男性の顔を見られる領域なのだ。桧山さんがいつも帰っている場所、寝ている場所、起きている場所、暮らしている場所。婚約者ということは、やがて私も、恐らくはここに住むことになる。そう思うと途端に、今日ここへ招かれたことは何か大きな意味を孕んでいるような気がした。私にとっても、桧山さんにとっても、大事なイベントだったのだ。
 まだ長い時間を二人で過ごしたわけでは決してないけれど、少なくとも桧山さんがこの婚約をただ政略結婚だけの意味で考えているのではないことは、何となく気付いている。納得が行っていないのは、私の方だ。いずれ家のために使われるかも知れないと頭の片隅に描きながら、いざその状況を目の当たりにするとなんの覚悟もできていなかった。この年齢になるまで縁談の一つも上がって来なかったものだから、もうそういう話は来ないものだとどこかで安心してしまっていた。
 桧山さんは悪い人ではない。この人との婚約話を持って来られたら、きっとどんな女性も喜ぶ。私も、例に漏れずそのはずだったのに。

「お詫びに向日葵をいくつかプレゼントしよう」
「い、いえ!そんな!勿体ないです!あんなに綺麗に咲いているのに…」
「しかし、」
「あの、本当にお構いなく…こんなに素晴らしい庭に招待して頂いて、これ以上は贅沢です」

 窓から見える庭の秩序を乱してはならない気がして、必死で断る。なぜか、桧山さんの方ががっかりしている。ここは素直に受け取っておく所だったのだろうか。
本来の令嬢業と言うのも難しい。私も、なんでもかんでも与えられて来た人間ではない。高校も大学もお嬢様校に入るのはまっぴらごめんで、祖父や両親の意見を無視して自分で選んだ。反対を押し切って社会人になる時に一人暮らしを始めた。グループの会社に入社することは嫌で、就活も自力で頑張った。一企業の創始者の家系だと見られるのが嫌で、飽くまで普通でいようとした。それなのに、その努力を簡単に泡に返すかのように決められた桧山社長との婚約。ああ、そうか、これまで自分で色んなことを決めて来たのに、ここで自分の力ではどうにもならないことが起こってしまって、私は悔しいのだ。
 しん、と静かになってしまった部屋。空気を悪くしてしまった責任を感じて、何かを言おうとした時、コンコン、とドアをノックされる。桧山さんと共にドアの方を見ると、そこにいたのは使用人ではないであろう人物だった。

「ああ…もしかしてお邪魔だった?」
「いや…」

 その姿をみとめた瞬間、桧山さんの眉間に僅かに皺が寄る。機嫌が悪く、というよりは、一瞬で緊張が走ったのを感じた。先ほどまでとは違い、低い声で桧山さんが突然現れた人物の紹介をした。

「縁者の服部だ、刑事をしている。こちらは…」
「これはどーも、婚約者のお嬢さん。グループのご息女だったかな」
「…と申します」

 なんで私のことを、と聞けるような雰囲気ではなかった。私のことを知っていたのは桧山さんの身内だからか、刑事と言う職業だからか。私のことを上から下まで品定めするような視線に耐えられず、目を逸らした。探るような目つきに、どんどん居心地が悪くなる。暗に、私に退室しろと言っているようだ。態度にこそ出していないけれど、確実に快く思われていない。帰ります、と言うより先に、服部さんが私に声をかけた。

「桧山グループが君の家にもたらす物は大きいだろうけど、君の家はどうだろうねえ」

 その言葉に、首を絞められたような気すらした。