手探りの距離感

 もっと仕事や会社の話ばかりになるかと思いきや、食事の席で先程から繰り広げられるのは雑談ばかり。今後の参考にとでも言わんばかりに、質問攻めとも言えるようなやり取りを続けている。けれど、作業めいたものではなく、ごくごくプライベートな当たり障りのない話だ。
 初めて二人で会った時も思ったが、桧山さんは意外と喋る。クールなようだけれど、私よりも恐らく喋る。私が単に簡潔な返答ばかりをしているからかも知らないけれど、それだけではない気がする。この場も、桧山さんが喋ってくれなければここまで保ってない。

嬢はお酒は好きか」
「ええ、あまり度数が高くなければ」
「どのような種類を?」
「カクテルばかりです」
「なるほど。よく顔を出すバーもカクテルの種類が豊富だ。また次回どうだろうか」
「そうですね、ぜひ」

 務めだ責務だと思えば、思いの外割り切って笑顔を作ることができた。桧山さんも、私との交際は仕事の一環だろうし、円満な婚約生活を送る上で必要な情報収集をしているに過ぎない。定期的に会わなければ祖父や父からも怪しまれる。忘れてはならないのは、これは個人同士の問題ではなく、会社同士の関係にも大きく関与するということだ。

(気を配らないといけないことって多いのだわ…)

 かなり良いお店のはずなのに、なんだかあまり美味しく感じない。普段お目にかかれないような料理の数々が目の前に現れるのに、緊張のせいというよりも、自分で自分に叩きつけた現実のせいで、その価値を半分も理解できないみたいだ。いつもだったら、こんなに美味しいはずのお料理には心ときめくはずなのに。料理というのは、きっと誰と食べるかによるのだ。ただ淡々と努めをこなすだけの食事の場は、なんと味気ないことだろう。
 最初から上手くいく関係なんて、それこそないのだろう。まして親の決めた婚約となれば。例えば、これから桧山さんを知っていけば良いし、好きになれば良いのかもしれない。けれど、それがいつまでも一方通行だったとしたら。桧山さんのような人が、特別美しいわけでもなく、対等な家柄でもなく、大した能力があるわけでもない私を、特別視することなんて有り得ない。
 そして、事情聴取のような質問はまだ続く。この間よりも、今日の方が初めての顔合わせらしくないだろうか。

「趣味はあるか?」
「趣味…大したものはないですけど」
「何でもいい、教えてくれ」
「プリザーブドフラワーを作ったり…」
「花が好きか、嬢」
「え?ええ、好きです」

 すると、途端にぱっと顔色が明るくなる。先程までも決して渋い顔をしていた訳ではないけれど、明らかに変わった表情に、思わず一歩引いてしまうような、気圧されるような心地になった。

「今度ぜひ、うちの庭を見に来るといい。気に入った花があれば手土産も用意しよう」
「え、ええ、ありがとうございます」

 確かに、桧山さんの自宅は大きなお屋敷だというし、庭もやはりそれなりのものなのだろう。そして今度は、今の時期はどの花がどうの、あの花がどうのという話が始まったが、そこからの桧山さんの熱弁には相槌役に回ることになった。気を遣って話を展開しなければならないプレッシャーからは解放されたけれど、話の最後には再度庭をぜひ見に来てくれと誘われ、その熱量につい頷くと、日取りまで早々に決められてしまうことになった。
 話してみて思ったけれど、婚約者なんて実感は湧かない。そういう仕事だと思えば仕方ないことなのかも知れない。それに、二人で会うのだってまだこれで二度目だ。桧山さんのことがよく分かったかと聞かれれば、分かったような、分からないような。興味が出たかと聞かれれば、あまり、としか言いようがない。親に決められた結婚なんてこんなものなのだろうか。実感の湧かないまま、男女の交際らしい交際を経ないまま、いつの間にか結婚していた、なんてことになるのだろうか。政略結婚をした全国の社長令嬢に訊いてみたい。
 食事を終えてお店を出ると、車の前で桧山さんが改めて私に向き直った。

嬢」
「はい」
「今日はつまらなかったか?」
「え……?」

 上手く笑えていなかっただろうか。誤魔化せていなかったらまずい、と思い、冷や汗が流れた。緊張していたんです、と返すけれど、やや疑われているようだ。多分、いや、確実にこの人は人の本心を探るのが上手い。

「友人が…」
「ええ」
「婚約者と距離を縮めるには食事が一番だと」
「距離を?」

 縮める気があったのか。私としてはありがたいことではあるけれど、あまりそういう風には見えなかった。事実、今日は桧山さんと距離が縮まった感じはない。寧ろ、私は割り切ろうとしている所なのに。恋愛感情もなく結婚なんて嫌だ、と思いながら、ここに特別な感情なんて不要だと言い聞かせている。務めとして優しくされたり親切にされるくらいなら、業務的なものでいいと。それなら、私はこの人にどんな言葉を期待しているのだろう。なんと言ってもらいたいのだろう。どんな言葉をもらえば、素直に受け取って私からも距離を縮めようと思うのだろう。ひねくれているな、と思う。もう少しくらい、可愛げのある令嬢なら良かった。きっと、もっと上手に桧山さんの言葉を受け取れる女性はいくらでもいる。まあ嬉しい、とにっこり笑って返事をできる女性なら、他にいるのだ。私みたいに、彼の言葉一つ一つを訝しむ方が、やはりおかしい。

「突然降って湧いた話だ、嬢が戸惑うのも無理はない」
「…………」
「けれど、この婚約指輪も嬢のことを思い描きながら選んだ。その事実に虚偽はない」

 私の左手を取り、ダイヤモンドの光る指輪をなぞる。誰が見たってその価値が予想以上だと分かる指輪。これを選んだ時、まだ桧山さんは私と会ったことはなかったはずだ。まだ見ぬ婚約者を思ってフライングで買ったとも思い難い。なんだか含みのある発言に、ますます困惑する気持ちが膨らむ。けれど、大袈裟に言っているとも、嘘を言っているとも思えない桧山さんに、私は半歩下がる。戸惑う、というのは正しく今の私の心境を表していた。

「二人で会うのも二度目だから仕方ないとは思うが、あまり身構えないでいて欲しい」
「そうは、言われても…」
「生涯パートナーなどいなくても良いとさえ思っていた。そこへ嬢が現れたのだから」

 身を引こうとする私の手首をぐっと掴まれ、退きかけた足が止まる。これまで見せることのなかった真剣な眼差しで顔を覗き込まれ、呼吸さえ止まりそうになる。なんとか少しだけ頷くと、また桧山さんは表情を緩める。握られていた手首も解放され、「家まで送ろう」と言って助手席のドアを開けてくれる。とてもじゃないけれど、もう上手な作り笑いができそうな気がしなかった。