浮遊してはいけない心

 結局、あの婚約指輪を突き出されて結ばれることになってしまった私たちの婚約。私は桧山さんに、この婚約は公にしたくないと希望を出した。桧山さんは周りの目など気にすることはないとは言ったけれど、私も経理課ではごく普通の一般家庭の出で通っている。入社以来五年間、周りに隠し通して来た電子社長の一人娘という事実。その努力が泡になってしまうのだ。
 それに、社内での私と桧山さんでは立場が違う。同じ会社で働いているとはいえ、職場で桧山さんに会うことはまずない。社長である彼とは逆に、私は経理部の一般社員。役職でもついていれば経営会議などで顔を合わせることもあったかも知れないが、生憎とまだまだ平社員の身である。それだけ立場の差があるということは、当然プライベートな時間がほとんど合わないということで、婚約から二か月、私は名ばかりの婚約者をしている。全く生活に変化はない。
 ふと、左腕の時計を見た。七月末と言うこともあって、普段は殆ど全員が定時上がりを決めている経理課も今日ばかりは十七時前でも人口密度が高い。

「あああー!!」

 隣の席の同期が突如叫び声をあげる。びくりとして様子を窺うと、元々色の白い彼女が最早青い顔をしていた。これは、何かまずい事態だな。私も業務が全て終わった訳ではないけれど、困っている同期を放っておくわけには行かない。何があったのか小声で訊ねてみた。

「ど、どうしたの…」
「営業からおっきな領収書一個来てない…催促メールもしたのに…」
「私、営業覗いて来ようか?丁度私も総務に用事あるから」
「ありがとう…今度奢る…」

 よその部署へ足を踏み入れるのは、私もあまり好きではないけれど仕方がない。
 そうして安易に引き受けた案件だったが、営業部のドアを開けて後悔した。月末の営業部は経理部の比にならないほど殺気立っている。領収書一枚のために声をかけるのも気が引けてしまう。誰に声をかけるか思案し見渡すも、顔見知りの同期は出払っているらしい。

「営業に何か用か」
「え、ええ!あの……」

 後ろから声がかかり、助け船だと思い振り返ると、そこにいたのは営業部の人間などではなく。

「ひや……じゃない、社長…!」
「経理の嬢がここにいるということは、領収書の不手際でもあったか」
「そうです、けど、なぜ社長がここに」
「移動中に嬢が見えたから声をかけただけだが」

 それが何か、とでも言いたげな視線を送って来る桧山さん。その姿さえ見るのが久し振りのような気のする婚約者の突然の登場に、思わず挙動不審になってしまう。少し前までは、こちらが一方的に知るだけだった相手。勤めている間に言葉を交わすことすらないと思っていた相手だ。先日二人で顔合わせと言う名のお茶をしたけれど、それでもやはり現実味はない。社長がその声で私の名前を呼んでいることすら。
 婚約のことは口外しない、という約束だったが、社内で会うと声はかけるのか、と内心ひやひやする。幸い、営業部はこちらのことを気にする余裕もないらしく、誰も気には留めない。きっと、この営業部よりも桧山さんは忙しくて、秒刻みのスケジュールをこなしているはずだ。こうして呑気に私と喋っている暇なんてないはず。婚約者に久し振りに会えた嬉しさ、なんてものは微塵にも湧いて来なくて、普通だったら盛り上がるであろうイベントに無感動な自分に落ち込む。私も意外と婚約とか結婚というものに夢を見ていたのかも知れない。

「次の約束が取り決められず申し訳ない。来月の頭には少し落ち着く、嬢との時間を作ろう」
「へっ!?あ、い、いえ、私は…」
「すまない、次の仕事に向かわせてもらう」
「はあ、どうぞ…」
「…………」

 しかし、桧山さんは動こうとしない。何か、じっと私を見下ろしている。気まずくて「いってらっしゃい」と言えば、「ああ」とだけ返事をして去って行った。
 婚約を結んでから季節も変わるほど時間が経ったというのに、初めて婚約者らしいお誘いがあった気がする。社長と社員という関係から一歩も動かなかった距離が、微妙に動く。連絡だってまめにとっている訳ではなくて、本当にただ形式上のようなもので、果たして意味があるのかとさえ思っている。会社の経営にも、私の仕事にも、私の生活にも、私の家にも何の影響もない。最早私の存在なんて忘れられているかのようにも思っていたのに。
 わたしとのじかん、とさっきの言葉を口の中で転がす。なんだかとても、面映ゆいような気がした。



***



 戦争のような月末を乗り越えて、私はそわそわしていた。桧山さんからは宣言通り、初めてのお誘いがあった。念入りにパウダールームでメイク直しをする。今日のために、と意気込んだわけではないけれど、初めて使った新品のアイシャドウも良い感じだ。髪のコンディションも良い。そして最後に、鞄から婚約指輪の入った箱を取り出す。とてもじゃないけれど普段使いなどできないそれを、恐る恐る左の薬指にはめた。ダイヤモンド盛り盛りの指輪は、やけに重い気がする。その時、バッグの中でスマートフォンが鳴った。桧山さんからの「地下の駐車場で待っている」というメッセージだった。嘘でしょ、思いながら慌ててパウダールームを出る。急いで指定された場所に向かうと、既に桧山さんは待っていた。予定の時間よりずっと早い上に、いくら月末を超えたとはいえ、桧山さんが定時上がりをするとは思っていなかったのだ。

「すみません…!お待たせしました…!」
「伝えた時間までまだあるが?」
「もう桧山さんが待っていらっしゃるようだったので…」
「仕事が早く終わっただけだ。嬢が謝ることはない」

 部署も立場も仕事内容も違うけれど、分かる。仕事が早く終わったのではない、早く終わらせたのだ。気遣いや配慮と言うよりは、桧山さんは素で言っているのだろうが、申し訳ない気持ちになってしまった。さあ、と車の助手席を促され、やや気落ちしながら乗り込む。桧山さんは気を悪くもしていないようだ。
 二か月前、二人で話したのがもうずっと昔のような気がしてしまう。何のアクションもなさすぎて、あれは夢だったのかも知れないと思った日もあった。けれど、嘘でも夢でもないと、二人きりの車内が思い知らせる。しかし、ただ婚約者であって恋人ではない私たちの間には、何の会話もない。左手の薬指にはまったダイヤモンドを弄ぶ。
 桧山さんは、どういう気持ちでこの婚約の話を受けたのだろう。自身の結婚が社や世間に影響を及ぼすことはよく知っているはず。相手が庶民では納得しない人間もいるだろう。それなりの相手が必要だったはずなのだ。誰でもいいわけではなかっただろうが、恋愛結婚しようとは思わなかったのだろうか。車を運転する横顔からは、何を考えているのかなんて知ることはできない。それでも、私の視線を感じたらしく、赤信号で止まると「どうした」と訊ねて来てくれる。なんでもないです、と首を振れば、そうか、とあっさりとした返事。しかし、思い出したかのように桧山さんが切り出した。

「そういえば、嬢の好みを聞きそびれていた。俺のよく行く店で構わないだろうか」
「え、ええ。ドレスコードさえなければ…」
「心配ない。そんなに畏まるような場所ではないからな」

 そう言って小さく笑う。ああ、笑うんだ―――この二か月、ほとんど接触もなくてそんなことも知らなかった。
 そうしてふと思う。この人にとって、結婚とは一体何なのだろうと。もしかすると、会社の経営材料の一つかも知れないし、運営の一環かも知れない。交渉の手段かも知れないし、ただの世間体かも知れない。恐らくたくさん来ているであろう縁談を断る理由かも知れないし、適齢期だからと適当に相手を探し始めたら偶然祖父が私を差し出したのかも知れない。ただ一つ言えることは、この人にとっては結婚さえも決して完全にプライベートではないということだ。そう思うと、私に求められているのは、きっと惚れた腫れたなんて感情ではなく、“婚約者”というポジションの人間であることだ。桧山さんと恋愛をするのではなく、桧山グループの代表の婚約者として、白く正しくあることが求められている。桧山さんは、祖父が出した条件が良かったと言っていたけれど、私の身辺の状況が良かったのではないだろうか。これだけ忙しい人であれば、構って欲しいタイプの婚約者を相手することは不可能だ。現に、この二か月殆ど音沙汰がなかったと言っても良い。

(どうでもいい訳ではないって言ったのにな…)

 そこに文句を言わなかったからと言って、不満がないわけではない。けれど言わないのは、私も一応は電子の家に一人娘として生まれて、心のどこかで覚悟していたからだ。恋愛結婚ができないことを。それが不幸なことだとは限らない。もしかすると相手を好きになれるかも知れないし、後から恋愛感情がついて来るかも知れない。ただ今は、婚約者としての務めを求められている気がした。二人の時間を作ろうと言われた時、少しでも擽ったく思った自分が馬鹿みたいだ。桧山さんの立場を考えれば考えるほど、決して恋愛感情で以ってこの人に求められることはないのに。それは確かに、寂しいことではないかと思ってしまったのだ。