夢見る年頃じゃないけれど

 この人とならどんな女性も喜んで婚約するだろうと、そう思うような相手だ。きっとこれまでも山ほど見合い話はあったはずで、私などにお鉢が回って来るとは夢にも思わなかった。もちろん、願ってもない話ではあるけれど、私ではあまりに不釣り合いではないだろうか。緊張で紅茶の味も分からないまま、ちらりと盗み見た彼は別段変わった様子はなく、今日顔を合わせた時から顔色一つ変えることがない。
 いい大人同士だから付き添いなんて要らないだろう、と礼儀もそっちのけで放り出された形だけの顔合わせの場。そこには、彼もたった一人で現れた。彼もよく使うのだと言うホテル上層のティールームは、休日とはいえ流石に落ち着いた雰囲気だ。一応最低限のドレスコードを考えて来て良かったとは思う。見晴らしのいい窓際の席で、しかし決して楽し気な雰囲気ではない私たちは、よく見れば滑稽かも知れない。
 婚約というものが降って湧いたのはあまりに突然だった。ある日、弊社の社長室に呼び出されたかと思えばそこには祖父と社長―――桧山さんがいて、「、貴臣君と婚約しなさい」などと言ったのだ。事態の呑み込めない私とは違って、まるで以前から言い渡されていたかのように冷静そのものといった風に、「よろしく頼む、さん」と言ってのけた桧山さん。

(後日改めでご挨拶を、というのが今日なわけだけど…)

 そもそも、この時代に本人の同意もなしに婚約を取り決めるなんて、一体どういう了見なのだろう。政略結婚、という単語がふと頭を掠めて行く。いや、それにしては家の方にばかり利益があり過ぎる。確かに祖父は一代で財を築いた電子機器メーカーの創立者で、父は家に入った婿養子―――現社長ではあるけれど、単純に年間収益だけみれば、桧山グループの方が上ではないだろうか。不動産王と名高い桧山貴臣に嫁ぐには、なんだか弱い気がしないでもない。桧山さんはそういう損得も政略結婚においては重要視するかと思ったけれど、案外そうでもないのだろうか。結婚くらいで左右される会社ではない、と。もしくは、一人っ子の私を嫁に取ることで。

グループを乗っ取る」
「…………」
「と、思われていそうだな」
「…いえ、そんなことは」
「確かに、嬢に男兄弟がいないのは正直、都合がいい。無駄な争いをせずに済むからな」
「嬢……」

 呼ばれたことのない敬称に、どこか痒い感じがする。もう、お嬢様呼ばわりされるような年齢でもないのだが。そもそも、幼い頃から贅沢をして来た訳ではない私は、社長令嬢とは名ばかりで、お嬢様らしい生活なんてしたことがない。自分の意識としてはそこら辺の会社員と変わらないつもりだ。私が電子の社長の娘だなんて、社内でも誰も思っていないはず。もし知れたら、それこそコネ入社だなんだと言われるに違いない。だからずっと黙っていたのだけれど、桧山さんと婚約してしまった暁には当然公表になるし、私の出自も明らかになってしまう。果たしてそれは、今後も我が社に勤務するにあたって良いことと言えるのだろうか。…やはり、浅慮な気がする。私は、この話を辞退するべきのような気がする。
 相手に失礼のない断り方をいろいろと考えるけれど、残念ながらこの年まで見合いの一つも持ち掛けられなかったお陰で、その失礼な断り方とやらが思い浮かばない。

「社ちょ…桧山さんは、納得している話なんですか」
「ああ、断る理由がない」
「私、桧山さんの会社の社員ですよ?」
「そう、電子社長の一人娘のな」
「もっといい話があるでしょう」
「いや、家以上に魅力を感じる条件は見なかった」
「もっと長く続いている会社とか、政治家のお宅とか」
「長い会社が良い会社とは限らない。政治との癒着も、また決して良いとは言えない」
「…………」
「他に質問は」
「……いえ」

 祖父がわざわざ出向いたということは、この婚約を持ち出したのは父ではなく祖父だ。いくら円満な家族関係とは言え、婿養子の父が祖父に強く何か意見することなんて考えられない。が出した条件と言うが、あの変わり者の祖父のことだ、突飛でもない条件を提案したのではないだろうか。桧山さんを頷かせる条件なんて、私には想像もできないけれど。
 もうすっかり紅茶は冷めてしまっている。次に桧山さんにかける言葉を思案しながら、カップに口をつけた。もやもやとする私の胸中を嘲笑うかのようにからりと晴れた五月の晴天が、じりじりと左肩を焼いた。冷えた紅茶が喉元を通り過ぎ、私に頭を冷やせと言っているかのようだ。
 断りたい、この話を。祖父や父が私の今後を心配して取りまとめた縁談なら、まだ少しくらい罪悪感もあっただろう。けれど、恐らくそうではない。祖父と桧山さんが、両グループのメリットの為に組んだものだ。私は会社を継ぐ人間ではないし、家のために結婚なんて決めたくない。

「不服そうだな」
「…私、ほとんど一般人なんです。政略結婚なんてごめんだと思っています」
「政略結婚なんて、か」
「言葉が、悪いですけど…」
「いや、率直な意見が悪いとは言っていない。配慮が必要な場面だとは思うが、生憎俺は嬢の言葉で傷つくような人間ではないのでな」
「そ、そうですか…」

 言葉を一度区切ると、桧山さんはスタッフを呼び止め、新しいお茶を、とオーダーした。冷えた紅茶はお好みではないらしい。

嬢は、始まりを気にするタイプか」
「ぞんざいにはしたくないですが」
「俺もどうでも良いと思っている訳ではない。だから、嬢に渡したいものがある」

 そう言って、取り出した一つの小さな箱。ひゅっと喉が鳴った。その大きさ、このタイミング、一体その可愛らしい小箱の中に何が入っているのか、分からない私ではない。箱に描かれたロゴが、おいそれと手にできないブランドのものであることも。なぜか自信たっぷりな表情をする桧山さんに、精一杯分からないふりをして笑って返す。口元が引き攣る。確か、エンゲージリングはダイヤモンドがついているはずで、この社長が用意するものといえば、生半可なものではない。箱に触れることすら恐ろしい気がした。最早眩暈すらする。

「俺なりに、嬢への誠実さを表したつもりだ」

 受け取ろうとしない私にしびれを切らしたのか、桧山さん自らそっと開けた箱には、大きなダイヤがカメリアを模った眩しい指輪が輝いていた。