ゆっくりと緩やかに

 人の口に戸は立てられない。大昔からそう言うように、現代日本でもまた同じらしい。いつかは公式に発表しなければならないこと、いずれは周りに知らせなければならないことだと、分かっていたはずだった。
 私は一体、何がそんなにショックなのだろう。最早小さな子どもの我儘にみたいになっている。あれも嫌だ、これも嫌だと駄々をこねる幼児のようだ。

(会社、行きたくない…)

 帰宅したすぐに、リビングのカーペットの上に倒れ込む。クッションに顔を埋めて、泣きたい気持ちを堪えた。
 同期や部署の人からの連絡も面倒だ。スマートフォンの電源も切ってしまおうと鞄から取り出すと、桧山さんからメールが届いていた。

 ―――明日一日、嬢の時間が欲しい。

 社長の一声で私の有給などどうにでもなるらしい。桧山さんと一対一で会うのは気が重いけれど、出勤することを考えるとその憂鬱さはいくらかましな気がした。何より、今日聞いたことは桧山さんを責めるべきではなかった。その事に関しては、ちゃんと謝らなくてはならない。
 分かりました何時でしょう、そう返事を打つと、すぐにまた返事が来る。十一時には迎えに行くと記されたメール。明日一日とは言われたけれど、本当にこんなにも急に午前中から時間が取れるものなのだろうか。とてつもなく無茶をしている気がしてならない。

(ご無理なさらず、午後でも大丈夫です…と……)

 そう返したものの、桧山さんは当初の時間を決して譲ることはなかった。明日一日、と最初に提示した手前、動かしたくないのだろう。
 私は、桧山さんが嫌なのではないのだ。桧山さん自身が嫌いだとか、そう言うわけでない。寧ろきっと、ただの政略結婚にしては傲慢ではなく、冷たいわけでもない。婚約者と言う“仕事”を感じさせることだって一度もない。確かに時間は全然取れないし、まだお互いのことをよく知るほど会っていないし話してもいない。それでも、悪い人ではないということくらい分かる。この溝は、話せば埋められる溝のはずだった。私が許せないことは、私の預かり知れぬ所で物事が運ぶことなのだ。
 だから、今日だって桧山さんを責めるようなことは言うべきではなかった。桧山さんに責任があることでもなかった。あれは私の幼稚な八つ当たりだ。明日はちゃんと謝ろう―――私はもう一度、クッションに埋める。こういう事は、時間が空けば空くほど気まずくなる上に、どんどんタイミングを見失ってしまう。今日の明日で会う約束を取り付けてくれた桧山さんに感謝した。



***



「遅くなってすまない」

 今朝、一度出勤したのであろう桧山さんが、うちに着いたのは十一時を三十分ほど過ぎた頃だった。私にとって待つことは苦ではない。遅れることくらいなんでもないのだ。確かに、事情が事情なだけにそわそわはしたけれど、恐らく忙しいのだろうと、連絡の来ない事情を察することはできた。午前の勤務を早々に切り上げて急いで来たらしい桧山さんは、なんとなく焦っている様子だった。すぐに車に乗るよう私を急かすのも、なんだか桧山さんらしくない。しかし、お互い車に乗り込んでから、桧山さんはなかなか車を出そうとしなかった。不思議に思って「どうしたんですか」と訊ねても、「いや、なんでもない」という返事。かと思えば、

嬢は実家を出ているのだな」

 全然関係ない話をし始めた。前にも食事の帰りに寄ってもらったこともあるし、とうに知っているはずだが、どうしたのだろう。

「高校も大学も就職先も、そして家を出ることも、自分で決めたと聞いた」
「父から…?」
「ああ。先日話をする機会があった」

 父は、桧山さんと会ったなどということは一言も言っていなかった。ただ、私がこの婚約に本心で納得していないことをよく理解しているのもまた、父だけだ。母は正しく社長令嬢として甘やかされて来たため、割と呑気だし奔放な所がある。母のことが嫌いではないけれど、どこか私を理解してくれようとしない母よりは、父の方が何かと話がしやすかったのは事実だ。だから、桧山さんとの婚約を知らされた時も、父だけが私を心配してくれた。家の言う通りに生きたくはないと思っていることを、言わなくても察してくれていたから。
 そうしてようやく、桧山さんは車を出す。どこへ向かっているのか口を挟む隙も無く、桧山さんが話を続けた。

嬢が自立心の高い女性だと言うことはよく分かった」
「…変ですかね」
「いや、寧ろ結婚した後も正社員として働きたいと言うことであれば、俺はそれに反対するつもりはない。家に閉じ込めておくことは推奨しないからな」
「…………」
「不満か?」
「いいえ、意外だと思って」

 仕事しなくて良いとまでは行かないものの、縮小することを勧められるかと思った。言われてみれば、あれだけのお屋敷なのだから使用人もたくさんいるわけで、普通の主婦のように一生懸命家のことをしなければならないことはないのかも知れない。けれど、生粋のお嬢様として育っていない私は、身の回りのことを何もかも他人に任せるのは、やはりできないと思ってしまった。自分の手の届く範囲くらいは、きっと自分でやりたくなると思う。一人暮らしを始めて長くなってきた分、余計に。

「ただ、社長という立場上、様々なパーティーに顔を出す事になる。そこには嬢にも妻として付き合ってもらわなければならない。あまり楽しい場ではないが」
「はい」
「後は、知っての通りあまり夫婦としての時間は取れないと思う」
「それも承知しています。お仕事に口を出す気はないですし」
「良いのか?」
「え?」

 信号が赤になる。車が停まると、桧山さんが私の顔を覗き込んで来た。
 今、一体何の確認をされているのだろう。桧山さんを取り巻く環境のことは、全ては分からないにしろ、ある程度は想像できる。幼い頃から祖父や父の働きを見て来たから、社交の場の大変さもだ。その立場からして、あらゆる制約があることも。財と立場を手にすればするほど、実は身動きというのは取りにくくなって行くものなのかも知れない。会社になんの関わりのない私以上にずっと。
 そういうことも理解しているつもりだ。だから、最初から不満があるのは桧山さんに対してでは決してないのだ。この婚約の始まりをおざなりにするつもりはないと、桧山さんは言ってくれた。距離を縮めようともしてくれた。だから、私もそういう人とであれば、恋の情は生まれなくても、家族として上手くやって行けるかも知れないと思ったことがあった。互いを知り、この距離が縮まればきっと。
 また、ゆっくりと車が動き出す。どんどん見慣れない景色へと移り変わって行く窓の外。最早どこへ向かっているのか聞きそびれてしまい、今更それを聞くのも野暮な気がしてならない。

「あの、勘違いされているかも知れませんが…」
「なんだ」
「私、桧山さんがお相手だという事に不服なわけではないんです」
「そうなのか?」
「そこに文句の付け所は一切ありません」

 思っても見なかった、というような顔をされる。それこそ思っても見なかったことだ。桧山さん相手に不満に思う女性がいるだろうか。きっと、婚約者になれば羨望を受けるくらいだろう。

「俺は、既に愛想を尽かされたものだと…」
「確かに婚約も結婚も、直近のライフイベントとして起こるとは思ってもいませんでした。だから私は、相手が誰であれ不服だったんです」
「…なるほど」

 やがて、目的地に到着する。そこは、たった一度だけ来たことのあるホテルだった。桧山さんと最初に顔合わせをした時に来た場所だ。受け取る気が引けるような大きなダイヤの乗っかった婚約指輪を渡されたのもここである。あれ以来、ひやひやしながら桧山さんと会う時は指輪をはめているけれど、まだなんだか私には不相応なもののようなきがしてらない。
駐車場に誘導され、車のエンジンを切るが、しかし桧山さんは車をまだ降りようとはしない。私もそれに倣い、シートベルトは外したものの、ドアに手はかけなかった。

嬢は、子どもの頃からあらゆる事を諦めて来なかった女性だ。進学先も、就職先も、住む場所さえも。祖父や父の勧めるものを拒み、自ら選んで来た。強く意思表示のできる女性なのだろう」
「そういうわけでは…ただ我儘だっただけです」
「いや、俺とは正反対だ。俺は、どうせ手に入らないからと、本当に欲しいものには手を伸ばして来なかった」
「桧山さんが……?」
「会社や財に関しては、己の努力でなんとでもなる。けれど、ごく個人的なものはそうだな…望まないようにしていたと思う」

 なんでも手にして来た人なのだろうと思っていた。その地位に登りつめるまで、様々な努力や犠牲があったかも知れないが、桧山さんほどの人であれば、手に入れられないものなどないのではないかと思うほど。けれど、そうではないと首を振った。

嬢の祖父にこの婚約の話をされた時、俺も断るつもりでいた。けれど、家の令嬢が嬢だと分かった時、断る選択肢など消えた」
「なぜ…だって、私、桧山さんとは会ったことが……」
「ある」

 話の展開が見えず、ただ瞬きを繰り返す。桧山さんは決して嘘を言っているようには見えない。けれど、いくら記憶を掘り返してみても、桧山さんと会った覚えはない。人違いではないだろうか。桧山さんなら、年間お会いする女性だって山ほどいるはず。その中に、私によく似た女性がいてもおかしくはないのだ。けれど、桧山さんの言葉は確信だった。

「もう随分前だ、俺は嬢に会ったことがある」