思わず目を逸らした。

 完璧な上司、というのはこういう人のことを言うのだろう。関さんと仕事をする回数が重なるにつれ、その感想は揺るぎないものになっていた。無闇矢鱈に部下を叱責せず、何かあれば自分が責任を取るからと、部下の思いを尊重する。上からの小言や文句は関さんが一身に引き受け、部下に火の粉が降りかからないよう盾となる。この人の下でなら安心して働けるのだろう。渡部さんとはまた違う、手本になるタイプの人だ。

「…ということで、この辺りの情報をさんにお願いしたい」
「分かりました、私も担当していた案件が含まれるので、すぐ見つかると思います」
「頼りにしてるよ」

 関さんに「頼りにしている」と言われ、嬉しくない人間がいるだろうか。関さんとしては対等な立場として発した言葉なのだろうが、私の方が年下ということもあり、なんとなく部下扱いされた気持ちだ。捜査企画課の課員たちは、関さんからの期待も仕事への責任を自覚する要因の一つになっているのかも知れない。
 用件も済み、今日はここでの打ち合わせや業務も終わりだ。一度外務省に戻ります、と言うと、珍しく「あ、ああ、そうだな」と歯切れの悪い返事が返って来る。まだ何か追加で外務省への依頼があるのだろうか。余裕があるわけでないけれど、引き受けられない程度でもない。
 もしくは、切り出しにくいとしたら、仕事とは全く関係のない話がしたいか、だ。別に、私がそこに気を回す必要はない。恋なんてもうしたくないと決めた人間が、揺れる気持ちを波立たせるようなことを自らしなくたっていい。それなのに、仕事とは関係ない雑談が私の口を突いて出る。私から雑談を始めれば、関さんも言いたいことを言い出しやすいはず、と。

「…前から思っていたのですが、でいいですよ。年下相手にそんなに気を遣わなくて結構です」
「いや、人の部下だと思うとな…」
「気にしませんよ、きっと」

 まあそうだな、半分生返事をして苦笑した。案外、何か気を遣う時は隠せないタイプなのだろうか。上手く誤魔化したりはぐらかす事のできる男性なのかと思っていたが、その躊躇いはどこか人間らしい。いつも完璧を装う彼の、そうではない断片が見え隠れしたような気がした。
 いくらか躊躇ったのち、関さんから発せられたのは思いもよらぬ一言だった。

、は…子どもはいるのか?」
「は……?」

 訊ねられた事のない事柄に、思わず渡部さんに返す時と同じトーンで返事をしてしまった。一体私にいつ、子どもがいそうな雰囲気が出ていたのだろうか。今の所、母性とは最も遠い位置にいると思うのだが。
 私が怒ったのかと受け取ってしまった関さんは、これまで見たことがないほど慌て始める。その言い訳は見事なほどに上手くなかった。

「い、いや、のなかなかプライベートが見えないから、少し気になっただけなんだが」
「だからって子どもはないですよ。結婚ならまだしも」
「結婚しているかなんて聞くのは今の時代どう考えてもセクハラだろう」
「子どもも同じようなものじゃないですか?」
「いや、まあ、ああ、そうだな、申し訳ない」

 段々とおかしくなって来た。先程まであれほど非の打ち所の無い上司だったはずなのに、それに感嘆すらしていた所だったのに、どんどん墓穴を掘って行く関さん。ああ、おかしい、と思った瞬間には、私の口元は緩んでいた。声を出して笑いそうになったが、口を押えて必死で堪える。

「ふ…っ、いませんよ」
「え?」
「子ども、いませんよ。今は仕事が大事なので……ふはっ、」

 決して崩すまいとしていた仕事の顔が、いとも簡単に剥がれて行く。仕事の愛想笑いをすることで、何かが溢れ出すのを堰き止めていたのに。好きだと自覚したら止めることはできないという、友人の言葉を思い出した。もう何年も生まれることのなかった感情が芽吹き始めるのを、否定することなどもうできなかった。

「ふ……」
……」
「ふは、すみません、関さんって意外と、意外とですね」
、笑うならいっそ普通に笑ってくれ」

 やや顔を赤くして、恥ずかしそうに頭を掻いて見せた関さん。立場上、普段は職場で部下にからかわれることなんてないのだろう。捜査企画課の誰からも憧れられるような彼であれば、課員たちだって軽口を言ったりなんてしないはず。渡部さんとはどうかは分からないけれど、あれでいてちゃんと立場や空気は分かっている人だから、ここで関さん相手にからかうなんて、まさかしないだろう。だから多分、上司の顔が崩れる関さんは、かなり貴重だと思う。

「普通に聞いて下されば答えますよ」
「気持ちのいい質問じゃないだろう」
「相手によりますよ。この年になれば既婚未婚の質問なんて慣れっこですし」
「だったら尚更だ」

 嗜めるように言う。その言葉の裏には、自己の経験が透けて見えるような気がした。
 独身主義で恋人を作らないと言う噂の関さん。彼も彼なりに何か事情があるのだろうが、よく知りもしない人間に踏み込まれるほど不快なことはない。それを、関さんはよく知っている。だから私に同じ質問を訊ねかねたのだ。既婚者なのか、子どもはいるのか、関さんがそれを訊ねて来る真意こそ分からないが。
 もしかすると、先日私を飲み会に誘った手前、私を取り巻く環境を気にしてくれているのかも知れない。結婚しているなら旦那に、子どもが要るなら子どもに気を遣ってくれているのだろう。かなり回りくどいリサーチの仕方ではあると思うが。それこそ、そういう質問をしたければ泉さんを使えばおかしなことにはならなかったのに。

(私相手に、そんなに気を遣う必要ないのに……)

 そう言いかけてぐっと飲み込み、ありがとうございます、とだけ返した。
 そこで関さんとのやり取りは終了したのに、帰り際、一部始終を見ていてらしい夏目くんがわざわざ追いかけて来た。捜査企画課の扉の外で捕まってしまい、嫌な予感がする。
 初対面から私を「ちゃん」と呼んでいる、距離の詰め方が私とは違う人種だ。同い年という事だが、このぐいぐい来る感じは、どことなく私の苦手な部類である。飲み会の席で隣になりたくないなあ、と失礼な感想すら抱いてしまった。苦手意識が芽生えて以来、なるべく業務連絡以外で話さないようにしていたのだが。

ちゃんって関さんと付き合ってるの?」
「まさか、なんで?」
「なんか仲良さそうだし、仕事仲間って雰囲気しなくない?」
「そうかしら」
「いつの間にさんからになったの?」
「さっきね」

 問い詰めるように、探るように質問ばかりを投げかけられる。適当な返事でかわし続けるが、どうも納得いかないような顔をする夏目くん。ろくでもないことを言われるんだろうなあ、とは思っていたが、予想通りと言うか、それ以上と言うか。まだ何か問い詰めて来そうに口を開きかけたが、助け舟と言わんばかりに開いたドアからは今大路さんが出て来た。

「ああ、さん。まだいましたか、よかった」
「なんでしょう」
「渡部さんに早急に渡して欲しい書類だそうです。僕もこれから出るので外まで送りますよ」
「ありがとうございます。…ではまた」

 タイミングが良過ぎるような気もするが、深く考えてもどうしようもない。笑顔で夏目くんに会釈をして、今大路さんについて行く。夏目くんの尋問から逃げられる安堵に、小さく息をついた。それを見た今大路さんが「お疲れ様です」と私に言ったところで、やはり先程の夏目くんとの会話を聞かれていたことが発覚するのだった。