何もかもがちぐはぐだ。

 頭と感情はまるで相反している。願望と現実も、どんどん乖離して行く。以前以上に、私がマトリに足を運ぶ頻度は増えていたのだ。もうじき渡部さんも帰国のはずだが、帰国後の業務も多いようで、まだ暫くは私がマトリ関連は引き受けた方が良さそうな気がして来た。…それはそれで、渡部さんが泉さんに会える時間が少なくなるから、あまり喜ばれないだろうか。
 その日、捜査企画課のドアを開けようとしたら、中から飛び出してきたのは青山さんと泉さんだった。中に残っている面々もピリピリはしているけれど、声をかけないわけにはいかない。タイミングを窺っていると、私に気付いた関さんが近付いて来てくれた。すまない、という一言と共に。

「…お忙しそうですね、いつも」
「さっき突然動いた案件があってね。落ち着いている時はこうでもないんだが…」
「渡部がいつも差し入れを持って行く気持ちも分かります」

 私から書類を受け取ると、関さんその場ですぐに確認をしてくれる。中身は、先日のスマイルサプリに関連したものだった。ほとんどのメールをポーランド語でやり取りしていたらしく、私がその翻訳を依頼されたのだ。
 関さんとは昨日も仕事のことでメールをしているが、文面からもその人柄が分かるような人だ。私は、思わず変な顔になってしまいそうなのを、表情筋に力を入れてぐっと堪える。仕事一筋の女に見えるように。プライベートでの顔など一切悟られないように。けれど、そんな私をいつも関さん自身が崩しに来る。

「よかったら今度、さんもうちの飲み会に来ないか?」
「……え?」
「すごい間だったな」

 大分間を溜めたことに、関さんも苦笑する。初めて会った時に、職場関連の飲み会は全て断っていると言ったはずだが、覚えていないのだろうか。いや、そんなはずがない。あの日の飲みだって断ったのに。

「いや、無理にとは言わないが…泉と同い年の女性はここにはいないからな」
「…検討しておきます」

 なんとも返事することができない。もう何度もここへ足を運んでいるけれど、同じ世代の女性が同じ課にいないことを、泉さん自身が気にしている様子はない。そういう性格の女性ではないと思う。多分、関さんのお節介というか、親心というか、そういった類のものなのだろうと思うのだが。私と泉さんが仲良くなれると決まった訳でもないし、一緒に仕事をすることはあれど、厳密に言えば同じ職場でもない。なんだかとても、複雑な気分だ。泉さんがどうこうというわけでなく、泉さんの事情に私を使われることが。黒い渦が胸中に広がって行くような気がした。
 できればいい返事を待っているよ、と、返事を渋る私に気を悪くした風でもなく、関さんは言った。



***



「その泉さんをダシにと飲みたいだけじゃないの?」

 予想とは逆の意見でもって、はばっさりと切って来た。
 友人であり元同期である彼女は、三年前に退職して専業主婦をしている。それ以降は、いつも私の休みに予定を合わせてくれるのだ。上から強制的に取らされた突然の有給に声をかけても、二つ返事で出て来てくれた。彼女もリフレッシュしたいからと、久し振りに二人でお気に入りのカフェにやって来たのだ。
 今は職場とは何の関係もない彼女は、私の良き相談相手だ。仕事に関しても、プライベートに関しても、包み隠さず話すことのできる数少ない友人である。

としてはどうなの?その、関さんって」
「いい人だよ、とても」

 すっと出て来た、それが本音だった。最初から悪い印象なんて一つもなかった。女だからってなめたり下に見たりしなかったし、引かれることもなかった。寧ろ助かったと言われたほど。私が完全に仕事の対応をしようと、営業用の顔で対応しようと、それで深いそうにしたことは一度もない。そうであれば、飲み会に声だってかけられなかったはずだ。はずだけれども。

「前の彼とはきっと違う。あれはあの男が悪かったのよ」
「……うん」

 彼女の言葉に、今も暗い影を落とす記憶が蘇って来る。恋愛なんて懲り懲りだ、と思ったのは早かったように思う。就職して二年目以降、私はとにかく仕事に打ち込んで来た。仕事で色んなことを紛らわそうとして来た。そうすればよそ見なんてしている暇もない。目につかなければ気にならないのだ。
 そうして数年間やり過ごして来たのに、関さんとの出会いは私にとって鮮烈だった。恐らく、冷静に振る舞おうとして冷たく映るほどに。極力目を合わせないようにしていたし、話せば話すほど意識してしまうから、余計な話をしないようにしていた。今だってそう。だから、関さん以外の捜査官の人と話す時と、関さんと話す時とでは私の緊張が違う。気持ちの揺れを悟られないように、他の人よりも冷たい対応をしてしまっているはずだ。

「ねえ、早々に社会人ドロップアウトした私はさ、の生き方はとてもかっこいいと思う」
「なに、急に」
「仕事で渡部さんにあれだけ認められるのも、並大抵の努力じゃ足りないって分かってる。だけどね、ごめん、から仕事以外の話が出たこと、とても嬉しいの」
……」
「きっとね、好きになってしまったら止められないと思うから、だからその時は、また私にぶちまけてくれていいわよ」

 これまでの全てを知る友人の言葉に、目元がじわりと熱くなる。ありがとう、と返すだけで私は精一杯だった。


 そうは言っても、渡部さんが帰国すれば私はお役御免だろうし、ゆっくりと忘れて行けるのかも知れない―――などと考えていたのは甘かったようで、帰国後最初に言われた言葉は、私のうっすらとした希望を打ち砕いて行くものだった。

ちゃんさあ、これからも半分マトリの案件受けてくれない?」
「……はあ?」
「おっ、いいねえ。ちゃんのその顔見ると日本だな~って思うよ」
「いや、冗談言ってる場合ですか」
「ポーランド語の件、ちゃん大活躍だったんだって?さっきマトリ行って来たら皆がお礼言ってたよ」

 どの皆だ、どの。いないならいないで不安なことはあれど、我が上司ながら、いたらいたで騒がし過ぎる。外務省に来るより先にあっちに顔を出したというのも、気持ちは分からんでもないが顔の引き攣りそうな事案だ。お陰でご機嫌なのだろうが、泉さんに会えたのであろうことが丸分かりだった。
 それはさておき、聞き捨てならないのは最初の言葉だ。マトリ関連の業務携わるのは、渡部さん出張中の間だけという約束だったはずだが、通常業務に今後も組み込めと言うことだろうか。

「俺も手一杯なこと多いし、もう一人くらい優秀な部下が兼任してくれると助かるんだけどなあ」
「いや、」
「海外出張だって、これからもあると思うし。俺もちゃんも」
「あの、」
「というわけで、もう関には話し通してあるから、今日の午後の小カンファ出て来てね」
「はい……?」

 私の心中など知るはずもない渡部さんは、「肩の荷が軽くなるな~」などと嬉しそうに言っている。先日、あんなにも悩んでいたのに、仕事となれば結局離れられないではないか。関わらなければ忘れて行くはずなのに、予定がどんどん狂って行く。

「頼まれてたお土産も買って来たし、よろしくね」

 差し出された紙袋は、確かに私が渡部さんに頼んだもの。突き返したい、今すぐ。マトリの業務から手を引けるなら、受け取らなくたって良い。けれど、たかが紅茶、されど紅茶。渡部さんの笑顔は、私に有無を言わせなかった。

「今後も責任もって務めさせて頂きます」
「さすがちゃん」

 その時、「今日の会議はよろしく」という内容のメールが関さんからも届く。どうにも、この世界は私に優しく作られていないような気がする。こちらこそお願いします、と簡易文だけのメールを返信して、私は奥歯を噛んだ。