これでもプライドがある。

 上司から振られた仕事は、そう簡単には断れない。意に沿わない仕事でも、ある程度はぐっと飲み込んで遂行しなければならない。組織に所属するとは、そういうことだ。ここ、外務省もまた然り。

「じゃ、後のことはよろしくね、ちゃん」
「…ダ○マンフレール」
「忘れてないって!」

 あのパーティー参加から二週間、今度は渡部さんのフランス出張が決まった。さほど長期ではないものの、上司の不在はやはり心許ない。こんなキャラクターでも、仕事はかなり出来る上司なのだ。そんな上司から出張中に頼まれた仕事に、私は憂鬱になっていた。

「マトリだってちゃんを取って食ったりしないって」
「そりゃ分かってますけど」

 明日から不在の渡部さんの代わりに、私が外務省と捜査企画課の連絡役をすることになったのだ。何か迷えばいつでも連絡して来て良いとは言ってくれたものの、極力現地を離れている人間の手を煩わせたくない。大きな取引が起こらなければいいのだけれど。
 非常に乗り気でない私に渡部さんが出した交換条件が、フランス土産のリクエストだった。私だって半分は冗談だ。フランスへは遊びに行くわけではないのだから。仕事が増えることは仕方ない。私だって出張になれば他の職員に仕事をお願いして行くこともある。ただ、その仕事の内容が捜査企画課が絡んでいることだと言うことが、私の気持ちを重くさせていた。

「関にもよく言っとくから。無理はさせないでくれって」
「いえ、それは結構です。仕事はちゃんとさせて頂きます」
「…なら良いんだけど、まあ、本当に困ったら連絡して来てよ」

 再度、念を押される。毎回、渡部さんが自ら足を運んでいる仕事を任されるということは、それだけ信用されているということだ。
 大丈夫です、と返事をする。この上司の仕事を信用しているのもまた、私だ。それに、渡部さんがフランスから帰って来るまでの間だけである。これからも延々、というわけではない。パソコンの電源を落として、誰にも聞こえないよう溜め息をついた。なんだか最近、仕事の顔を上手く作れない。



***



 翌日、捜査企画課の扉を早速開けると、がらんとしていた。電話番として残っていたのは、関さんでも泉さんでもない人だった。声をかけると、愛想のいい笑顔で対応してくれた。

「こんにちは、渡部の代理のと言います」
「今大路です。事情は聞きました。関さん宛ての資料ですよね」
「はい、関さんは…出てますよね」

 部署を見渡して見ても気配がない。どうやら全員外に出ているらしい。急遽動いた案件があるらしく、待っていても暫くは戻って来ないとのことだった。関さんと顔を合わせなくて良いことにどこかほっとしながら、資料を今大路さんに預ける。
 この苦手意識は、具体的に説明できるものではなかった。直感と言えばいいのか、本能と言えばいいのか、近付かない方が良いと頭の奥で警鐘を鳴らしていた。悪い人では決してない、ないのだけれど、だからこそだろうか。必要以上に関わらない方が良いと思ったのは。
 しかし、ほっとしていたのも束の間、話し声と共にドアが開いたかと思えば、帰って来ないはずの関さんが課員を連れて帰って来たのだった。その中にはもちろん、泉さんの姿もある。にこりと笑って会釈をされ、私も同様に返した。私が渡部さんの代理でここへ来ることは、恐らく本人から彼女も聞いていることだろう。

さん、どうしてここへ?」
「…あの、渡部の代理で」
「ああ、今日からだったか。捜査資料かな」
「ええ、今大路さんに渡したのでご確認下さい」
「ありがとう」

 勝手に気まずさを感じながら、関さんから目を逸らす。
 本当はすぐに渡した資料を確認してもらって、何かこちらで対応しなければならないなら済ませておきたいのだが、恐らく捜査企画課はそれどころではない。課員数名が何やらただ事ではない様子で話している姿が見える。長居しても迷惑なだけだ。すぐにその場を去ろうとした。が、今日は色々とタイミングが悪い日らしい。

「何これ何語!?」
「英語…じゃないですね、ロシア語も違うか」
「今大路、分かるか」
「…いや、分かりませんね」

 押収して来たのであろう書類を、数名が覗き込んでいる。帰ります、という一言を言いそびれてしまった。関さんと泉さんの視線が同時にこちらを向く。それに気付いた他の課員も私を見た。

「…私が見ても大丈夫なようでしたら」
「これなら大丈夫だろう」
「分かるとは限りませんが」

 関さんを経由して私に一枚の書類が渡って来る。それは、メール内容と思われる文章のコピーだった。送信元や宛先のメールアドレスは適当なものなのだろう。意味のない文字列が並んでいる。本文の方は、幸か不幸か、幼い頃から馴染みのある言語だった。捜査企画課の全員の視線がこちらに集中する。期待と懇願の混じった視線だ。流石に、解読できてしまうものを分からないというような意地の悪さはない。それに、渡部さんに任されてしまった仕事である以上、引き受けないわけには行かない。

「ポーランド語ですね、これ」
「内容はなんて?」
「えーと…新種の種を開発した、鑑賞用として…かなりの量を出せる、日本で欲しがっている企業がある、と」
「バイヤーに関して何か書いてないか?」
「これですかね、サプリメント開発会社って書いてる…スマイルサプリ?」

 会社の名前を告げた途端、俄かに空気が変わる。途端、慌ただしくなり、関さんが次々に指示を飛ばし始めた。私一人、話の流れがさっぱり分からず、書類を持ったまま突っ立っているしかできなかった。…もう良いのだろうか。これ以上ここにいても邪魔なだけな気がする。このメール文章も正しく翻訳して渡すべきなのだろうか、迷ってしまう。そんな口を挟むことができないほど、私がスマイルサプリの名前を口にしてからの動きは早かった。恐らくもう、誰も私の存在が見えていないかのように。
 一番近くにあるデスクに書類をそっと置く。小声で失礼します、と言いながらドアノブに手をかける。その時、後ろから関さんに呼び止められた。さん、と。

「ありがとう、助かったよ。話は後で改めてする。渡部に連絡先を聞いておいていいかな」
「……ええ、構いません」

 嫌だ、なんて言えるはずがない。たっぷりと間を取った後、笑顔で返事をした。
 関わりたくないと思えば思うほど、接点が増えるのはなぜだろう。仕事の為だとは言っても、極力職場の人間にもプライベートな連絡先は教えていないと言うのに。自分のオフィスへ戻る足取りは、ここへ来る時よりもずっと重い。渡部さんが出張の間のただの連絡係、ただの代理ではいられないような気さえした。私の直感はよく当たるから。だからあまり近付きたくなかったのに。

 関さんから電話で連絡が来たのは、その日の夜だった。まずは私があのメールを解読したことへのお礼、そして事件のあらましを説明された。どうも、スマイルサプリというのは別件で捜査していた会社らしく、二つの事件が大本は同じだったということで、一気に解決に近付いたのだそうだ。畑が違うため、難しい話をされて理解しがたい部分もあったが、簡単に言えばそうらしい。

「…けれど、あの文章どころどころおかしかったので、わざと分かり辛くするためにあの言語を使ったのでしょうね」
「おかしい?」
「無理矢理ネット翻訳でもさせたみたいな、変な文法でした」
「ああ、輸入元はポーランドではなかったからな。雑な時間稼ぎのつもりだろう」
「へえ」
さんが語学に堪能で本当に助かった」

 一切の嫌味もない言葉に、一瞬言葉に詰まる。そういう純粋な褒め言葉を受け取るのは、あまり得意ではない。

さん」
「はい」
「また、力を借りることがあると思う。よろしく頼む」
「…私で可能なことであれば」

 私の直感はよく当たる。だから信じて良い。この胸騒ぎはきっと間違いない。これ以上関われば、私はこの人を好きになってしまう。
通話の切れたスマートフォンをぐっと握り締めた。まだ登録されていないその番号は、履歴にただの数字として表示されている。僅かに震える指で新規登録ボタンを押す。関さん、と入力しながら、どくんどくんと大きく脈を打っているのを私は自覚していた。