「冷やしますか、湿布貼りますか」

 誰もいない医務室で、長椅子に座らされた私はまずそんなことを聞かれた。ここに来るまで殆ど会話なんてなかったものだから、一瞬反応が遅れる。「冷やし、ます」とまるで言葉を覚えたてのようにぎこちなく返事をすると、京介くんは冷凍庫から保冷剤を取り出した。適当に棚を漁ってガーゼを探しだすと、保冷剤に巻いて私に差し出す。確かに、嵐山くんに言われた通り、私の右足首は熱を持っていた。

「それで、本当はどうしたんですか」
「本当って?」
「嵐山さんとぶつかってなんかないすよね」
「いや、ぶつかっ」
「てないですよね」
「……はい」

 有無を言わさないその言葉に、私は是と答えるしかなかった。今日は随分強引だ。私が本部へ転属すると言った時にも問い詰められたが、それ以来だ。
 長椅子の上で体育座りをして右足首に氷を当てる。腫れてもいるし、熱も持っている。捻挫なんて何年ぶりだろうか。最近は集中力散漫だったから、近い内に怪我の一つでもするだろうとは思っていたが、まさか足とは。日常生活に支障を来すような怪我をしてしまい、自分の責任だが落ち込んでしまう。
 大人しく足を冷やしている私の姿を確認すると、また京介くんは薬品棚をごそごそと触り出した。その後ろ姿を見ていたら、私が玉狛にいた頃のことを思い出した。こうやって二人だけになることも珍しくはなくて、四つの年齢差を感じさせないくらい色んな話をした。遊びでやっていた訳じゃないけれど、充実していたし楽しかったと思う。それが今はどうだろう。ボーダーよりも学校のことに追われて疲れるばかりだ。高校生の頃は、学校へ行ってボーダーの任務をこなすことくらい何でもなかったのに、防衛任務をしなくなった今の方が、なんでこんなに疲れるのだろう。それを思うと、視界がじわりと滲んだ。

さん、湿布持って帰……どうしたんですか」
「な…なんでもない」
「嘘つかないで下さい」
「だって、なんでか分かんない」

 泣くつもりなんてなかった。確かに捻挫したことは自分のどんくささにショックは受けたし、足だってずきずきと痛むけれど、泣くほどのことじゃない。気付いたら溢れていたのだ。理由なんて、多分なかった。いっぱいいっぱいだった、きっとそれだけだ。

「本部で誰かにいじめられてます?」
「そんなことない…」
「じゃあ玉狛に戻りますか?」
「それは、できない…」
「でも辛いんですよね」
「辛い、のかなあ…」

 医務室の机の上にあったティッシュを箱ごと私に渡す京介くん。二枚ほど取り出して私は目元を押さえた。
 辛いというのは違うと思う。自分で決めた選択肢に辛いなんて言いたくない。間違っていたとも思いたくない。一番近い感情を表すなら、寂しい、しか浮かばない。私の同期が、同じ年代の子たちが戦闘員として活躍している、実力を上げて行っている。面倒を見た後輩たちもそうだ。私だけが戦線離脱した。文字通り、置いて行かれた。もう京介くんと背中合わせで戦うこともないし、同じラインに立つことは二度とない。多分、それだ。私なりにやりがいを感じていたことを放棄して、新しいやりがいなんて見付けられないまま。
 子どもみたいにぐずる私の頭に、ぽんと手を置かれた。そのまま頭を引き寄せられる。座ったままの私の頭は、京介くんの鳩尾辺りに収まった。

「玉狛には新しく三人やって来たけど、たった一人さんの穴を埋められないんです」
「……その内、成長するよ」
「でもさんじゃありません」
「そりゃ、そうでしょ…」
「俺はさんがいいです」
「…そんなの」

 京介くんの言葉に返す言葉が見つからない。それはあまりに酷い誘惑の言葉だ。これ以上、自分の決めたことに後悔なんてしたくないのに、一度後悔という気持ちに気付いてしまえばそれしか出て来ない。辞めなければ良かった、と。

「そんなの、京介くんだけじゃないよ…」

 私が本部に戻っても、何かと理由を見付けては玉狛支部に足を運ぶ理由。ずっと機嫌を損ねている京介くんの機嫌取りをする理由。さっき、捻挫した時に京介くんが私に声をかけてくれた時に感じた安堵の理由。それらは全て、たった一つのj感情とイコールで結ばれているのだ。それすら、もう手離そうと思っていた。私は彼にとってただの先輩で、同じ支部にいただけで、私の代わりなんていくらでも利くと自分に言い聞かせていた。そうでなければ、そうだ、寂しくて寂しくて仕方がなかった。

さんがこんなに弱い人だとは知りませんでした」
「いい先輩で、いようとしたから」
「じゃあ、もうその必要ないすね」

 そう言うと私を離して、今度は上から掬うように両手で頬を包んだ。それは私の知らなかった両手。涙で頬が濡れているのも気にせず、その手で私に触れた。年下とはいえ、さすがにもう手の大きさは女の私の一回りくらいある。その指先が、私の目元を擦った。
 言葉の意味を分かりかねて、数回ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、京介くんはふっと笑った。見たことのない表情に、思わずどきりと心臓が一度跳ねた。そして「もう先輩でいようとしないで下さい」と言う。

さんを守らせて下さい」
「は……」
「俺の前にさんがいないなら、隣にいて下さい」

 なにそれ、と言おうとして、声は声にならなかった。見つめ合った京介くんは嘘や冗談を言っている風ではない。そんな彼と、言われた言葉を呑み込んで理解する。まるで告白みたいだ、と。信じられなくてひたすら瞬きを繰り返す。今度こそ私は声を失ってしまったのかも知れない。言われたかった言葉をこんなに都合よくもらえるはずがない。夢でも見ているのだろうか。けれど、私の頬に触れる手の感触は本物で、私が触れてみた彼の手もまた本物だ。本物の温かさを持っている。
 うそ、と、ようやく吐き出したのはそんな言葉だった。それを受けて京介くんは「嘘じゃありません」と言って私の顔を覗き込む。

さんがいないと駄目みたいです」
「私は…」
「はい」
「私、も…です…」

 口にした瞬間、体が熱を持つのが分かった。今の状況をよく考えてみたら、ただの先輩後輩がするような体勢ではない。こんなこと、ただの先輩後輩じゃ言わないし、しない。

「どうでもいい人を抱えて医務室に連れて来るほどお人好しじゃありませんよ」
「それは、知ってる」
「でしょうね」

 なくしたピースが戻ってきた訳じゃないけれど、それを補う別のピースが、上手にそこにはまった気がした。








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(2016/02/08)