さんってあんなに大人しい人でしたっけ」

 さんが作戦室から出て行ったのを確認して、充はそんなことを言った。新人指導のマニュアルを借りに来たさんは、本部に出戻りしてからというもの、うちの隊が引き受けていた分の新人指導の仕事も請け負ってくれている。まだ第一線で戦えるような人がなぜ総務課に、と誰もが思ったが、新人指導を引き受けると聞いて俺は納得していた。だが、そうは思わない人間もいるらしい。

「学校が忙しいらしいぞ」
「それにしても変わりましたよね」

 忙しくてももっと楽しそうにしている人でした、と続ける。よく見てるなと感心してしまった。充とそこまで接点のあるような人じゃなかったはずだが、そこまで印象に残る人だった訳だ。確かに面倒見もいいため、俺の知らない所で充も世話になっていたのかも知れない。
 さんと言えば、彼女の入隊した時期の中では随一のトリオン量を誇っていることで話題にもなった人だ。実力もあって、あっという間にA級レベルにまで駆け上ったかと思えば、玉狛への転属。そこでもその力を発揮していることは本部にも聞こえて来ていた。けれど、二か月前に突如現役の戦闘員を退くことが発表され、あらゆる噂や憶測が本部でも行き交った。実際の所は誰も知らず、さんも弁解しないため噂は今も一人歩きしている状態だ。きっとそのどれも正解ではないのだろう。
 テーブルに広げていた書類やファイルを片付けながら、次第に話題はさんの本部時代の話にまで遡った。防衛任務なら何度か俺も被ったことがあったが、確かにあの頃と比べると元気がないような気はする。憔悴、とまでは行かないが。すると、賢が書類の山の中から一本のボールペンを忘れる。

「あ、さん忘れ物してますよ!」
「行きましょうか?」
「や、総務に用事あるから俺が行くよ」

 水色のボールペンを受け取り、作戦室を出る。まださんが出てから五分も経っていないから、そう遠くへは行っていないだろう。あのまま総務に戻ると言っていたし、一番近い経路を使うなら―――

さん!」
「あ、嵐山くん…」

 廊下の隅で座り込んでいるさんを見付けてしまった。周りには先程貸した資料が散乱しているが、それどころではない。右の足首を押さえており、そのまま立ち上がれないらしい。状況から察するに恐らく捻挫だ。資料に目をやりながら「ごめんなさい」と言う。余程痛いのか、苦悶の表情を浮かべている。ちょっと待って下さい、と声をかけて、とりあえず散らばった資料を掻き集める。

「何か躓きました?」
「うーん、何もなかったんだけどねえ…最近だめみたい」
「しっかりして下さいよ」

 冗談めかして言うと、再びごめんね、と言って苦笑いするさん。
 もしかして、今の仕事が相当大変なのではないだろうか。ちゃんとした指導係なんてこれまでやったことがなかったはずだ。ここの所、うちの作戦室にやって来る頻度も多くなった。学校だって、大学ではなく異例の専門学校への進学だったはずだ。俺のように空きのコマがある訳でもなく、月曜から金曜まで毎日朝から夕とフルで通っていたはず。
 失礼します、と言って触れた右足は既に熱を持っている。大丈夫だから、と立ち上がろうとするものの、立ち上がった瞬間顔を歪めて見せる。右足には力が入れられないようだった。これでこの荷物を抱えて総務課に戻るのは無理だろう。一旦資料は作戦室に置きに行って、さんを医務室にでも運んだほうが良さそうだ。

「待っていて下さい、今…」
さん、どうしたんですか」

 現れたのは、先日までさんがいた玉狛支部の烏丸だった。気まずそうに顔を背けるさん。うっかり転んで捻挫した、なんて、よく面倒を見ていた後輩には知られたくないだろう。さんが何も言わないため、烏丸は俺に説明を促すかのように視線をこっちに寄越す。

「ちょっとした事故だ。なんでもない」
「事故…」
「ぶつかっておいた俺が言うのもなんだけどな」
「嵐山さんがさんとぶつかったんですか?」
「すみません、さん」
「あ、いや…私もぼーっとしてたし…」
「しっかりして下さい、さん」

 そう言うと、さんの了承も得ずにひょいっと彼女を抱え上げる。どこが痛いんですか、なんでもない、嘘言わないで下さい、嘘じゃない―――そんな埒の明かないやり取りを廊下の真ん中で始めた。今は誰もいないが、いつ誰が来るとも分からない。あまり目立ちたくもないだろうと思い、口論を続ける二人に口を挟んだ。

さん、とりあえず医務室は行った方が良いです」
「ひ、一人で行ける…」
「結構腫れてるようだったので冷やして来てもらって下さい」

 烏丸に抱えられているさんを宥めるように言う。すると、じとりとさんに目をやる烏丸はすかさず彼女を問い詰め始めた。

「腫れてるってどこですか」
「だから別にどこも、」
さん」
「……右足」
「仕方ない人ですね」
「年上捕まえて言う言葉じゃない」

 そう言いながら、口を尖らせるさん。まだ何だかんだ言い合いはしているものの、医務室へ行く気にはなったようだ。ご迷惑をおかけしました、となぜか烏丸に言われ、またさんは何だかんだと文句を言っていた。玉狛でもあんな感じだったのだろうか。さんが随分烏丸の世話を焼いているということだったが、どうも聞いた話と違う。あれでは烏丸がさんの世話を焼いているではないか。

(いや、それよりさん、元気だった…よな…)

 二人が何やら言い合っているのはまだ響いて来る。とうとうさんの手が烏丸の頭を叩いた。あんまり暴れると落ちるぞ、と思いながら二人分の背中を見送った。
 そこで気が付く。さんの元気がない理由が、今なんとなく分かった気がした。








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(2016/02/07)