今日だった

「ひ、ひさしぶり…」
「おう」

 会って最初に挨拶したとおりに、本当に久し振りだった。影山くんにとっては貴重なオフなのに、結局あの遠征以降、これでもかというほどスケジュールの合わなかったため、ようやく会えることになったのだ。
 影山くんと再会して、初めて二人で会った時に来たこのお店に足を運ぶのも、あの日以来である。私も大概、二人で会う場所のバリエーションがないのだが、影山くんからはもちろん何の文句も出ない。前回と違うのは、今回は夜ではなく昼間だということだ。そして今日は、影山くんよりも先に私が到着していた。

「遠征、お疲れさま」
も」
「うん」
「何か頼んだのか」
「う、ううん」

 そうは言っても、まだお昼ご飯がつっかえているような気がして、何も喉を通らなさそうだ。私は前回と同じくアールグレイを、影山くんもコーヒーをオーダーした。
 そわそわして落ち着かない私は、何度も水の入ったグラスに手を伸ばす。飲み物が届く前に水を飲み干してしまいそうだ。私の緊張は、前回ここで会った時よりも遥かに大きかった。影山くんとちゃんと話をしろと友人にけしかけられても、いざ本人を前にすると何を話せばいいのか分からなくなる。この間のことを掘り返すのも余計気まずいし、なかったことにもできない。ごめん、といきなり謝るのもきっと違う。まるで、何かの審判を待っているような気分になって来た。

「…日向から」
「うん」
「通知が止まらなかった」
「う、うん…?」
「主に日向から、やれいつの間にだのいつからだの、とにかくうるせぇ」
「そ、そっか」
「谷地さんから聞いたって言ってたけど、その谷地さんからも数年ぶりに連絡が来た」
「えっ」

 やけに影山くんが喋る。いつもの三割増し喋るような気がした。普段、話題提供は私の方が多いはずなのに。気を遣っているようには思えないけれど、珍しい展開に思わず圧倒されてしまった。

「どいつもこいつもって、の何を知ってるんだよ」
「う、うーん……」
「俺だってこの三年のことなんて何も知らねえのに」
「……うん」

 やや拗ねたような口調がおかしくて、堪えながら相槌を打った。確かに、この三年間の話なんてお互いにしなかった。きっと影山くんのバレーにおいての活躍については、調べればいくらでもスポーツニュースが出て来るのだろう。けれど、私が知りたいことはきっとそこにはない。だから、一度も検索することはしなかった。
 影山くんも影山くんで、何も聞いて来ることがなかったから、離れていた期間のことは特に気にしていないのかと思っていた。けれどどうやら、影山くんなりに興味は持ってくれていたらしい。
 本質的な所は変わっていないにしろ、どこか少しずつは変わっているはずで、その差異を埋める作業を飛ばしたのは怠慢だったかも知れない。高校時代近くにいたからきっと分かるだなんて、そんなことあるはずがないのに。

「あと、遠征中に仙名からの写真がすっげぇ送られて来た」
「何してるの!?」
「大学時代のとか」
「お願いそれは消して……」

 そんな古い写真の私なんて、今よりメイクも下手だし、今より太っていた覚えもある。昔の写真を掘り返されて嬉しいはずがない。なりに影山くんに気を利かせたのか、それとも尻を叩いたつもりなのか。
 すると、一枚の写真を表示して、私の方に向ける。のスマホで撮った私とのツーショット写真だ。在学中にと唯一観に行ったバレーの試合会場で撮った写真である。それはもう、私の端末には残っていない一枚だった。

「黒鷲旗」
「…………」
「見に行ったのか」
「……一回だけ」

 三年間、色々あった。言えることも言えないことも、たくさんあった。言えないようなことはきっと言わなくて良いのだと思う。けれど、言えることはきっと、言うべきだ。今はまだ三年前の延長に今があるわけではないから、空白を埋めて線を繋げるべきなのだ。
 お待たせしました、と言って店員さんが紅茶とコーヒーをテーブルに置く。一瞬で緊張してすっかり冷えてしまった指先を、熱いティーカップが急速に温めて行く。影山くんは、私をじっと見つめている。その視線をまっすぐに見つめ返すことが、今はできない。私の三年間は、きっと影山くんとは真逆だったから。

「…私、忘れられたら良かったと思ったの」
「ああ」
「楽しかったことも、辛かったことも、影山くんに言ったことも、全部忘れられたらって思った」
「ああ」
「言ったことなんて、なくならないのに…」

 上京した頃、本当なら新しい生活の始まりは不安もあれど、楽しみな気持ちの方が大きいはずだった。けれど、想像していたものとは反対に、慣れない生活、馴染めない大学、悪化する実家との関係、なかなか時間の合わない恋人―――様々な要因が重なったとは言え、私は早々に限界を迎えていた。はずみで言ってしまった言葉は取り返しのつかないもので、実際それがきっかけで影山くんとの関係は一度終わった。

「バレーの選手じゃなかったら良かった」
「…………」
「あの時の私は、本当にそう思っていたんだと思う」
「…そうか」
「そう思ったことも、忘れたかった」

 自分が最低であることは分かっていたし、にも当然叱られた。どんな我儘を言おうと、それだけは言ってはいけなかったのだ。影山くんを全て否定することになってしまう、その一言だけは。
 最後に一度だけ、と観に行った試合で活躍していた影山くん。それを見て別世界のすごい人なのだと思うと共に、私なんかが傍にいる資格はないと改めて思った私は、やっと影山くんの連絡先を消す決心がついた。さっき影山くんが見せた写真の私が不自然な笑い方をしているのは、そういった複雑な気持ちがあったからだ。もうずっと、思い出すことも忘れていたけれど。

「そうすれば他の誰かを好きになれるかも知れないって思った」

 影山くんが、テーブルの上で握り締めている両手に力が入るのが、視界の隅に映った。

「でも、できなかった」
「…………」
「また傷付けるかも知れないと思うと、誰かを好きになんてなれなかった」

 きっとまた、間違えてしまう。はずみで言った一言で、取り返しのつかないことをしていまう。あの時の過ちを正せないまま、前に進むことができなかった。けれどあれ以来影山くんとは接点のない道を歩いていたし、一生背負って行く間違いなのだと言い聞かせていた。
 ティーカップの湯気が段々と薄れて行く。一度言葉を切った私は、紅茶に口を付けた。釣られたように、影山くんもコーヒーを口に運んだ。

「もう間違えたくなかったのに」

 鼻の奥がつんとする。泣くな、泣くな、と奥歯を噛み締めた。

「また、間違える所だった」

 ちゃんと話すことから逃げて終わってしまったあの日を、もう繰り返したくない。歪んでいるなら正したいし、ずれているなら修正したい。逸れたままただ離れて行くなんて、もうしたくない。
 ようやく俯いていた顔を上げる。影山くんは、私を責める様子も、怒っている様子もない。ただ私の話を聞いてくれている。いつもそうだ。上手く話せない私の話を、ずっと聞いてくれている。あんな酷いことを言った時でさえ、私を叱責することはなかった。それなのになぜ、逃げようとしたのだろうか。ごめんなさいの一言で片付けようとした私は、あまりに狡い。

「影山くんと離れていた間のこと、話したい。話したい、し、影山くんの話も聞きたい」

 きっと影山くんは拒んだりしない。最初の会話がそれを物語っているし、私が嫌になったり話したくなくなったりしていれば今日ここで会っていない。それでも、緊張した。これまで、私があまりに自分の気持ちを伝えられていなかったせいだ。“今”だけでいいはずがない。今を構成する空白を知りたくないはずがない。影山くんがどこで何をしていたのか、どんな人たちと出会いどんな風に過ごして来たのか。バレーのことも、プライベートのことも、知りたくないはずがないのだ。こんなにも好きだと思うのに。
 混雑のピークが過ぎた店内は、埋まっているテーブルも少なくなっている。お客さんの話声も落ち着いて来て、段々とここでこんなに真面目な話をするのは憚られるような気がした。まだ二時間も経っていないのに、もうかなり長い時間ここにいるようだ。きっとここから先は場所を変えてゆっくり話した方が良い。けれど、どこへ、という案が浮かばない私は、店を出る提案もできない。
 すると、影山くんが「ここ、出るぞ」と言って席を立つ。もたもたする私の手を引くと、さっさとお会計を済ませてしまい、お店を出てしまった。怒らせたわけではないのだろうが、意図の読めない行動に思わず首を傾げてしまう。どこへ行くでもなく、お店の前で立ち尽くす。

「か、影山くん…」
「人目のある所でする話じゃないだろ…」
「そ…っか……」
「少し歩くぞ」
「あ、う、うん」

 手を握るというよりは、掴むと形容した方が正しい方法で私を引っ張って行く。多分、影山くんにも行き先は決まっていなくて、ただできるだけ人混みのない場所を探しているようだった。どうしても都心はそのような場所はなく、ろくに話もしないまま歩き続けて辿り着いたのは、結局駅だった。

「…………」
「…………」

 どんどん人の集まる駅前は、当然話をするのには向いていない。行き先は一つだと、暗に言われている気がした。もうここですっとぼけて解散なんてできるはずがない。

「…うちで、話しますか」

 話すだけでは済まないかも知れないことは、多分お互いに意識している。けれど、他のいつでもなくタイミングは今日だった。

「ああ」

 二人で駅の改札を抜けた。殆ど喋らないまま電車に乗って、私の見慣れた景色へ帰って行く。隣に影山くんがいることだけが通常とは違う景色で、けれどそれは違和感ではない。いつも一人で帰る家、いつも影山くんを迎える家、初めて二人で入るエントランス。何もかもが不思議で、一度収まったはずの緊張が再び大きくなって来る。
 それでも今日だった。ちゃんと話をするのも、向き合うのも、一線を越えるのも、全ては今日だったのだ。