瞬きをして

 進んだようで進んでいなかった時計の針が、動いた。終わってしまったと思った時間は、終わっていなかった。あの時離してしまった手がここにあって、確かに私に触れる。怯んで拒んでしまった知り得なかった体温は、ただ優しかった。私の涙を拭う指先は、少しぎこちなかったけれど。




 ふっと意識が浮上する。まだ薄明るいだけの光がカーテンの向こうから差し込んでいて、少し肌寒さを感じた。重怠い体で寝返りを打とうとしたけれど、なんだか身動きが取れない。唯一自由に動く首を巡らせてみれば。

「ひぇ…っ!」

 掠れた小さな叫び声が漏れた。げほげほと噎せこんでいると、後ろでもぞもぞと何かが動く。ようやく、ぼんやりしていた頭がはっきりして来た。昨日影山くんと話したこと、昨日影山くんと帰って来たこと、昨日、影山くんと―――そこまで順を追ってしっかりと思い出すと、急に顔が火を噴いたように熱くなって来た。なお、その影山くんは今もがっちりと私を後ろから固定している。

「…
「お、おは、おはよぉ…」
「…………」
「ま、まだ寝てていいよ」

 寝起きのせいで随分目つきの悪くなっている影山くんは、それきりまた眠ってしまう。
 なんだか、想像していたのと違う。いや、別にだからどうという訳ではないのだけれど、一晩過ぎて、未だに緊張しているのは私の方だけなのか。私はというと、すっかり頭が冴えてしまって、いつもだったら気持ちよく貪る二度寝に突入できそうにない。だからと言って、この体勢では枕元のスマホに手も届かない。
 背中に感じる自分のものではない温度に、どうにも落ち着かない。もう、昨日からずっとその感覚なのに。終始困惑というか、戸惑うことばかりだった。思い出すのも今はまだ恥ずかしく、「慣れるわよ」という助言とは言えない助言をくれたかの友人の言葉は信じられない。


「ね、寝てないの?」

 一人百面相を繰り返していると、眠ったはずの影山くんに名前を呼ばれる。その不意打ちに思わずびくりとしてしまった。

「こんな時に、言う話じゃねえけど」
「…なに?」

 影山くんの方を振り返ろうとしたら、そのまま更に引き寄せられて、首も動かせなくなってしまった。その、トーンの低い声のお陰で、何の話なのか八割くらい目星がついてしまった。最近、何度も言いかけては言葉に迷い、結局言えなかったことだろう。私も、噂程度には聞いている。

「このシーズンから、海外に行く」
「うん」
「いつ日本に帰るかは分からない」
「…うん」
「できるだけ、長くあっちでやりたいとは思ってて」
「影山くん」
「…………」
「私には、影山くんだけだよ」

 何を言っても、正解でも不正解でもない気がした。正直、影山くんがどんな返事を期待しているのかも検討がつかない。どんな返事をしたって、きっと頷いてはくれるのだろうけど、それが喜ばれているとは限らないのだ。
 私を抱きしめる腕に手を添える。自分の腕が、酷く頼りないように見えた。影山くんからすると相当細いようで、しょっちゅう仕事や食生活を心配はされる。スポーツ選手の男性と比べられても、と苦笑いするしかないような話だ。
 だから、多分影山くんは私を日本に残したくない。実際、もう一度やり直し始めたタイミングだったし、ここでまた離れ離れになるのはあまりにも寂しいし、心細い、けれど。

「今度は、待てる」

「いつまでだって、今度は」

 あの時のやり直しではない、あの時言った言葉は簡単に消えるようなあやまちでもない。けれど、今ならもう間違えることはない。今度こそ影山くんの背中を押すことができる。嫌だと言うような子どもではなくなった。ただそれでも、海外へついて行くだけの覚悟もなければ、自分を確立できるものもない。だから今は、手を離すしかない。

「ヨーロッパなんて、すぐだよ」
「ああ」
「現地も応援、行くから」
「ああ」
「行くから……」

 寂しくないなんて嘘は言えない。だから寂しいとも言わなかった。けれど、泣かないことはできなかった。
 何もかもタイミングなのだと思った。出会ったことも、別れたことも、再会したことも、一線を越えたことも、新しい道を歩き出すことも。ちゃんと影山くんの口から聞けて良かった。関係が悪いままでなくて良かった。ちゃんと、海外に行く前に話ができて良かった。良かったはずなのに、涙が止まらない。こんなの、困らせるだけだ。待てると言った傍から、影山くんに心配をかけてしまう。
 起き上がって、私を抱き締める。私が泣き止むまで、影山くんは私の背中を擦ってくれていた。



***



「私さあ…と友達じゃなかったらローマになんか来なかったと思うわけよ」

 げっそりした顔で隣の席のがぼやく。慣れた私とは違い、長時間の飛行機疲れが祟っているらしい。

「せっかくチケット二枚もらったから…」
「まあね、高校の同級生が二人も出てるんだから、その雄姿くらい見ないといけないけど」

 会場の熱気は、二年前の東京を思い出すようだ。時々国内リーグも見に行ったけれど、やはり国際大会の盛り上がりは国内リーグとは段違いである。周りにやや圧倒され、小さくなりながら座席に座っている。
 影山くんが在籍するチームが国際大会で決勝進出したということで、私とは観戦に来ていた。泣きながら海外へ発つのを見送って以降、何度か私もイタリアに足を運んだことはあるが、最近は少し慌ただしく、影山くんの出る試合を実際見るのも久しぶりになってしまった。
 せっかくなのでとはイタリア観光を満喫する時間も組み込んだ。さすがに大会中で決勝を控えている影山くんとはゆっくり会うことはできなかったけれど、合間に少しなら話すことができた。一昨日の夜、私とをホテルまで送ってくれた時に。
別れる直前、腕を掴んで引き留められたかと思えば、がいるのも気にせず影山くんは私に言った。

「しかしまさか人のプロポーズを目の前で見ることになるなんて」
「その節はどうも……」

 珍しく、それはもう緊張した様子で「結婚してくれ」と言ったのだ。「今言う?」と思わないでもなかったが、真っ赤になっている影山くんにつられて真っ赤になった私は、「はい」と返事をした。そのまま次の言葉もなく固まっていると、そういうことは優勝してから言え、と姑さながらの形相で影山くんから私を引き剝がした。
 あの後、改めてスマホにも同じ文言が届いていたことは、さすがに隣の友人には言えなかった。けれど、彼女も察している。つまり、私も日本を離れることを。

と旅行で来て良かったよ」
「…ありがと」
「もうなかなか帰って来ないんでしょ」
「うん」

 その瞬間、試合の開始を知らせるホイッスルがアリーナに高く響く。わあっと沸く会場、互いの声も聞こえ辛い中、ずっと見守ってくれた友人は言う。強くなったね、と。

も、影山くんも強くなった」

 試合が終わったら会う約束をしている。きっとその時、影山くんはまた改めて先日と同じ言葉を言うのだろう。同じように、がいるにも関わらず。そうしたら私は返事をするのだ。一度だけ瞬きをして、笑顔で「はい」と。