ずれて行く

 三年も離れれば、何もかも勝手が変わるものだ。それは相手が変わったのか、自分が変わったのか、或いは両方なのか。不思議と、あの頃不安に思っていたことが不安にならない。代わりに、社会人になった今だからこそ不安になることはあるのだけれど。




 せっかくのオフだから好きなことをすればいいのに、休みになると影山くんはほとんど必ずうちに来る。うちに来て何をするかと言えば、試合のDVDを見る。それこそ寮でできるのでは、とも思うのだけれど、影山くんに来られて迷惑なことなど何もないので、デッキは好きに使わせている。その間、私は家のことをしたり、持ち帰りの仕事をしたりしているのだが、試合がセット間に入ったらしく、影山くんが私に話を振った。来週何か予定はあるのか、と。

「しゅっちょう」
「うん、出張」
「どこへ」
「大阪だよ」
「写真家って出張があるのか…」

 慣れないらしい言葉を影山くんが繰り返す。遠征、と言えば少しは馴染みがあるだろうか。メールするし、お土産も買って来るから、と言うが、そういうことじゃないと影山くんは言う。喜怒哀楽が分かりやすく表現豊かな方ではないけれど、明らかに気を落とした様子だ。

が帰ってきたら、今度は俺が遠征だ」
「そっかあ、仕方ないね」
「…………」

 私もなかなか影山くんのスケジュールを把握してはいないのだけれど、どうにも最近予定がかみ合わない。いや、影山くんのチームのホームページから予定を把握していたとして、私の仕事も急に入ることがあるのでどうにもならないのだが。それはもう、言った通りに“仕方ない”のである。しかし、納得いかなさそうな顔をしている影山くんに、私は首を傾げた。テレビ画面からは、外国人の監督が英語で何やら指示を飛ばしているのが聞こえて来る。やがて第三セットが始まったが、影山くんは話を続けた。

「…三年前はそんなこと言わなかった」
「そ、そりゃあ私だって多少大人になったから…社会人だし」

確かに、大学生になりたての頃だったら拗ねていたかも知れない。事実、あの頃はそれですれ違って会える時間も少なくなり、衝突することもあった。それを思うと、私と影山くんの今の関係は非常に穏やかだと思う。大きな喧嘩なんてしていないし、言い争いもしていないし、私としてはいい関係だと思っていたのだが。

「もうちょっとくらい、こう…」
「私、今から拗ねた方がいい?」
「そういうわけじゃねえよ」

 冗談半分に返すと、影山くんはぶすりとする。私の冗談にそんな顔をする所は、高校生の頃と変わりがない。おかしくて笑っていると、影山くんは気付かないふりをして第四セットの始まった画面へと視線を戻す。こうなるともう集中し始めるので、普段は聞き洩らさないことも影山くんの耳には入らない。
 今回は合同練習だか練習試合だかで東京を離れていただけだけれど、今年のシーズンが始まればもっと時間は合わなくなる。それだけではない、いつからだとか詳しい話は何も聞いていないけれど、影山くんは海外リーグに挑むという話も聞いている。本人からではなく、又聞きで。

「…だって、もうすぐ日本も離れるでしょ?」
「何か言ったか?」
「ううん、なんにも」

 一瞬私の方を見たけれど、そうか、と言ってまた画面を見る影山くん。いつもびっしりとノートに何かを書き留めているけれど、そこは私には不可侵の領域だ。
 そうして、第四セットまでだった試合を見終えて、更に第三セットまでだった試合のDVDをもう一本見ると、時間は夕方になっていた。影山くんの帰る時間だ。

「そろそろ帰る」
「うん」

 影山くんは、寮の夕食に間に合うように必ず帰る。次の日のこともあるから当然遅くまでなんてことはないのだけれど、夕方の薄暗くなって来た空気も相まって、その一言が影山くんの口から出る瞬間はいつもなんとなく切ない気持ちになる。
 マンションのエントランスで見送りながら、不意に影山くんが立ち止まって振り返る。


「なあに」
「あー…なんでもない」
「なにそれ」
「いや、まあ、いつか言う」
「じゃあ、待ってる」



 そんな会話をしたのが二週間ほど前だろうか、三週間ほど前だろうか。なんだか頭も上手く回らないみたいだ。
 キッチンで縺れ合うように事に及びそうになる。けれど私がフローリングの硬さに苦言を呈すると、行為にストップをかけられむすっとした影山くんにより、抱えられてリビングに戻って来た。なぜベッド上という考えに至らないのか、それでも直に板の上よりはカーペットの上の方がまだましだ。ひたすら口付けを続ける影山くんを感受しながら、私は目を閉じながらもその背中に腕を回した。すると、気を良くしたらしい影山くんは、とうとうするりと服の裾から手を差し込んで来る。
 けれど、その手首を反射的に掴んで止めてしまった。

「ま、待って、」
「…………」
「チームの人に、何かけしかけられただけなら、別に急ぐ必要は…」
「嫌か」

 嘘も誤魔化しも利かない雰囲気に、口を噤んでしまう。拒否する理由に大きなものはない。然るべき流れと言えばそうだし、一度別れたとは言え知らない相手でもない。けれど、嫌かと聞かれれば、嫌だ、としか答えられない。何より、声にしなくても顔に出してしまった。すると、察した影山くんがすっと手を引く。代わりに先程よりもずっと強く私を抱き締めた。
 周りに流されてこんなことするような人ではないことくらい、分かっている。チームの人たちに帰って来るなと言われた、というのも口実に使っただけかも知れない。私が、言葉の選択を間違えたのだ。
 影山くんは何も言わない。何を考えているかも分からない。私が何か言葉をかけようにも、きっと何を言ったって言い訳になってしまうし、無意味だ。大人になって、社会人になって、耐えられることも我慢できることも増えた。あの頃は気にならないことが気にならなくなった。それなのに、大人になったのに難しい。私は今、なんて言うのが正解だったのだろう。遠くから帰って来て、そのままの足でここに来てくれたのに、影山くんに何一つ応えられていない。

「…影山くん、ごめん」
は悪くないだろ」
「ごめん」

「ごめんなさい」

 何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。その度に自分が情けなくて、申し訳なくて、消えてしまいたい気持ちになる。泣きじゃくる私の背中をあやすように叩く影山くんに甘えることしかできない。
 いつかはこういうことが、とは思っていた。小学生の恋愛じゃないのだ、想像だってしなかった訳じゃない。けれど、いざとなると拒んでしまった。何かがストップをかけさせた。再会以降、お互いにどこか何か遠慮している所のあった私たちが、ぎこちなさを取り払うチャンスだったのかも知れない。なのに、そのタイミングを私が失ってしまったのだ。