想像力の果て

 影山くんの入っている寮と、私のマンションが思ったよりも近かったことから、影山くんはしばしば私の部屋を訪れるようになっていた。遠征での試合の後なども、寮を経由せずそのままうちに来ることがある。寮の方がちゃんとした食事も出るだろうし、慣れた部屋の方が休まるだろうに、遠征の荷物を抱えたまま現れるのだ。それは、一応私のスケジュールも確認した上ではあるのだけれど、なんだか心配になってしまう。
 今日もまた、昼前に影山くんはやって来た。しかし今日に至っては今朝連絡があったばかりなので、私も何の用意もできていない。部屋も散らかっているし冷蔵庫の中身もかなり寂しい。

「ごめん、今日すごく散らかってるんだけど…」
「いつも綺麗だろ」
「う、ううううん…」

 部屋のことだ、と分かってはいるけれど思わずどきりとしてしまった。影山くんの言葉の選択が心臓に悪い。
 やり直し始めたばかりの私たちは、まだどこかぎこちない。空白だった三年を埋めるかのように、時間さえ合えば会ってる私たちだけれど、どうしても会話のテンポや間は微妙だ。だから、こうして遠征帰りに私の部屋では休まらないのでは、と特に思ってしまうのだが。
 テーブルの上は仕事の資料やパソコンで散らかっている。影山くんが手を洗いに行っている間に、急いでそれらを片付ける。1Kの我が家にはテーブルがこの一つしかない。これからお昼ご飯を、となればここを空けなければならないのだ。私一人だったら一食抜くくらい構わないのだが、影山くんがいるとなれば別である。

「…急ぎの仕事だったか」
「ううん!勝手に持ち帰ってるだけ!」

 一応気にしたらしい影山くんが訊ねて来るけれど、はいそうですとは言えないし、もちろん急務の仕事ではない。こういう些細なことに意外と気を遣う所は、高校時代から変わっていないと思う。中身に触れれば何も変わっていないのに、どうしたって緊張してしまうのは、外見の変化だと思う。
 いつもどおり適当に荷物を置いて適当に座った影山くんにお茶を出す。一応昼食のリクエストを聞くけれど、いつも通り「なんでも食べる」との返事。何か難しいオーダーをされたところで、作れるものは限られているのだけれど。

「何か洗濯するものあったら洗おうか?」
「いや、………頼む」
「じゃ、出して」
「おう」

 そう言って数枚のタオルが出て来る。衣類もあれば一緒に回してしまうのに、遠慮でもしているのだろうか。タオルと衣類は分けて洗濯するタイプとか。いや、私も何が何でも洗濯したいと言っている訳ではない。渡されただけのタオルと、自分の洗濯物も一緒に洗濯機へ放り込む。すると、ぎょっとした様子で影山くんが洗剤のボトルを持つ私の手を掴む。

「あ、あの…?」
「一緒に洗うのか、
「え?そうだけど…衣類分けた方が良い?タオルだけで洗う?」
「いやそうじゃなく、いや、そうだな、分けた方が良い」
「そう?」

 東京に出て来てすぐは、お互い慣れない生活で影山くんが私の部屋にくることもほとんどなかった。だから、生活スタイルも知らないことが多かったようだ。これから洗濯物を預かる時は、タオルと衣類を分けると覚えておこう。意外だった、割と神経質なのだろうか。私もさすがに衣類やタオルと靴下類は分けて洗うけれど。
 一旦洗剤を置くと、自分の衣類を全て取り出した。…まさかとは思うが、下着は入れてないのだけれど、そこへの懸念だったのだろうか。だが、今更わざわざ確認するのもどうかと思い、やめておいた。

「乾燥機ないから、夜までに乾かなかったらごめんね」
「また取りに来るからいい」

 手間かけるな、と言って影山くんが私を見下ろす。出会った時から既に身長は高かったけれど、更に高くなったように思う。実際伸びているらしいけれど、また一つ遠くなった目線に少し切なくなりながら、見つめられた目線をそのまま見つめ返した。すると、徐に影山くんが右手を伸ばしたかと思えば、私の頬に触れ、そのまま髪を梳いた。
 時折、こういうことがある。並んで座っている時に手を重ねて来たり、握って来たり。そしてゆっくりと離れて行く。何か言いたげで、でも何も言われなくて、それは少しもどかしい。事実付き合い始めたばかりなのだけれど、高校生の頃、初めて付き合った頃と同じような気持ちだ。何を考えているのか、何がしたいのか分からなくて、でもその意図を訊けなくて、もどかしい思いをした。あの頃よりも上手に訊けるかと思ったけれど、そうでもないらしい。相変わらず離れて行く右手を惜しいと思うばかり。

「催促するわけじゃねえけど」
「う、うん」
「腹が減ったな」
「うん、そうだね!私もだよ!」

 緊張の余韻を残しながら、さっきまでの空気なんてまるでなかったかのような発言に、焦っていた自分が馬鹿みたいになる。
 明確に三年前までと違うことがある。私たちは二十歳を超え、大人になっていることだ。大人になれば色々と変わって来ることがあるもので、意識することも変わって来るもので、恋人同士の男女が同じ部屋に、空間にいるということは、色々と考えることがあるはずなのだ。今も、多分もう少し何か違えば“いい雰囲気”というやつだった。だが仕方ない、人間誰しも空腹には勝てない。こういうことを考えていると、私ばかりがはしたないように思えて来て恥ずかしくなる。


「なに、」
「今日」
「うん」
「泊まって行ってもいいか」

 瞬間、パスタを茹でるために出していた両手鍋を足の上に落とした。

「いっ……!」
「大丈夫か!」
「だいじょぶ、じゃ、ない…っ」

 幸いまだ水は入れていなかったけれど、鉄の塊が足背を直撃した痛みは尋常ではない。キッチンで蹲って足を押さえる私に、同じようにしゃがむ影山くん。おろおろしながらその両手は行き場がなさそうにしている。あまりの痛さに影山くんに言われたことのインパクトがやや薄れてしまった。聞き間違いかと思ったが、多分聞き間違いなどではない。

「そ、そんなに嫌だったか」
「あの、嫌とかそういうことじゃないんだけどね…!」

 思わず涙目になりながらも影山くんの言葉を否定する。じんじんと残る痛みはなかなか消えてはくれず、笑った顔が引き攣る。私の大きな動揺を察した影山くんが、どんどん表情を険しくして行く。ああ、多分自分の発言に責任を感じているのだろうな、とは思ったけれど、恐らく何が問題だったかはあまり分かっていないのだろう。影山くんも影山くんで困惑しているように見える。

「…チームのやつらに」
「うん」
「カノジョほったらかしにすんなって」
「う、うん」
「今日は帰って来るなって言われた」
「そ…っかあ……」

 多分それは冗談だし、冷やかしだし、羨ましさとか影山コンチクショウって気持ちとか、いろんな意味があるのだろうけど、それを真に受けてしまった訳だ。今日泊まらずに帰ったとしても「なんだ帰って来たのかよ!」と言われるだろうし、明日帰ったとしても「昨夜はお楽しみでしたね」的なことを言われてどうせからかわれる。そういう場面はこんなにも想像できるのに、素直というかなんというか。

(本当に変わってないなあ…)

 影山くんは寮暮らしだから起こらないようなことだけれど、普通は私の方が「泊まって行ってもいい?」と言って、鍋を落とすのが影山くんなのではないだろうか。私の方が言われて動揺してしまっているなんて、やっぱりどこまでもはしたないのかも知れない。さっきの様子からするに、影山くんの想像はあまり遠くまで及んでいなさそうである。ただそれも私の想像で、実際影山くんがどうかは分からない。分からないからには、とりあえず予防線は張っておくべきである。私たちはまだ、ぎこちない段階なのだ。

「多分それ、冗談だから寮に帰ってもいいんじゃないかなあ」
「ああ」
「だよね、うん、でしょ?」
「でも」
「で、でも?」
「今日はと長くいたい気分だ」

 乾ききっていないさっきの涙の滲む目元を、影山くんの指が優しく拭う。大きな手のひらが私の頬を包み、夜を映したような二つの眼が私を捕らえる。私は何度かぱちぱちと瞬きをし、その目から逃れる術を考えたけれど、思いつくより先にその眼がどんどん近付いて来て、やがて唇と唇が触れた。抵抗も拒否もしようと思っていなかったけれど、角度を変え執拗と言えるほど繰り返されるキスに、息苦しくなって震える手で体を押し返す。けれどびくともしなくて、諦めた私はそのまま服をぎゅっと握った。やっと離れる頃には頭もぼうっとしていて、思考は正常に機能していない。腰に回っている影山くんの腕がぐっと私を引き寄せ、そしてもう一度訊いて来た。

「今日、泊まって行ってもいいか」

 それは明らかに私の想像の及んでいた所と同じ意味を含んでいる。影山くんの腕の中で、私は小さく頷いた。