許されない、許されたい

 影山くんはどちらかと言わなくても人とのコミュニケーションは苦手な方だ。友達もいるのかいないのか、学校で日向くん意外といる所を見たことがなかったくらい。けれど意外と表情豊かで繊細だし、人に対して気を遣うような所もある。そして何より、バレーの上手い下手など分からない私にとっては、バレーが生活として存在している世界にいる影山くんが遠くて、眩しくて、好きだった。それ故に、別れることになってしまったのだけれど。



 数年ぶりに二人きりで会う元恋人とは、どこで話すのが正解なのだろう。きっと、二人で話がしたいと言っても、影山くんにはどこで、なんて考えはないように思う。色々と考えた結果、職場近くにあるカフェを選んだ。遅くまでやっている個人経営のカフェだが、平日のこの時間になると入店客も少ない。社会人は皆、居酒屋で飲んでいる時間だからだ。
 お店に着くと、私より先に影山くんが到着していた。一般人より背の高い彼は、お店の奥の方で座っていてもよく目立つ。店員さんに「お一人ですか」と聞かれた瞬間、影山くんとぱちりと目が合う。連れが先に、と伝えて、私は影山くんの座っている席に近付く。私が来るまで試合の動画を見ていたらしく、影山くんはタブレットをしまった。相変わらず生活の中心は全てバレーボールらしい。当たり前か、と思いながら影山くんの向かいの席に腰を下ろす。

「遅くなってごめん」
「いや」
「何か頼んだ?」
「コーヒー」
「だけ?」
「ああ」

 流石にここに来るまでに何か食べて来たのかも知れない。単語でしか返事をしない影山くんの夕食事情についてはあまり気にしないことにした。のんびり食事をしに来たわけでもない。私もすぐ手を上げて店員さんを呼び、アールグレイを頼んだ。紅茶をオーダーしながら、ふとスポーツ選手―――というか、影山くんもカフェイン摂るんだな、と素人丸出しの思考が頭を掠めて去って行く。高校生の頃はコーヒーどころかパックジュースも決まったものしか飲んでいる所を見たことなかったのに。月日と言うのは、流れた分だけ知らない情報が積み重なっている。

「…………」
「…………」

 会いたい、と言った癖に、一言も話そうとしない影山くん。居心地の悪い沈黙が続く中、私の頼んだアールグレイはすぐに運ばれて来た。湯気の立つカップが目の前におかれると、カラカラに乾いた口の中を潤すべくすぐに一口含んだ。その様子を見て、ようやく影山くんがゆっくりと口を開く。

「砂糖、入れないんだな」
「え?砂糖?」
「ストレートで飲めなかっただろ、昔」
「…うん」

 お互い同じことを考えていたようだ。当たり前だろう、私たちが一番長く時間を過ごしたのは高校時代だったのだから。思い出も後悔も、私たちの間の何もかもがあの時間の中にある。けれど、言われてみてやっぱり少し嬉しいと感じてしまう。私があの頃砂糖を入れずに紅茶が飲めなかったことを覚えてくれていたことが。
 次第に、ぽつぽつと昔話が始まる。私があの頃のことを覚えていたように、影山くんもあの頃の全てを忘れた訳ではなかった。クラスの違う私たちは自販機の前でよく喋ったこと、テスト前にはうちのクラスに影山くんと日向くんが来てテスト勉強をしたこと、赤点回避をみんなで喜んだこと、一緒に帰った日に話したことまで。細かな記憶が鮮明に蘇って来る。

「もう、三年も前になるんだね」
「……ああ」
「すごく、昔のことみたい」
「俺は今でも昨日のことのように思ってる。当たり前のようにがいたこと」
「え?」
を忘れようと思ったことは一度もない」

 影山くんの言葉に、私は目を見開いた。私をまっすぐにみる目はあの頃と何一つ変わっていない。記憶の中にある影山くんの面影と、目の前にいる今の影山くんが重なる。
 私と逆だ、と思った。私は忘れたかった。早く影山くんを忘れて前へ進みたかった。そこに留まっていても良いことなんて何もないと、影山くんと元通りになれる日なんて来ないと思っていたから。大学在学中には他の人と付き合ったことさえある。そうして忘れて行けると思ったのに、忘れられるどころか何もかもを影山くんと比べてしまって、結局どうにもならなかったのだ。
 そうして私が悪あがきをしている間も、影山くんは私を忘れずにいてくれた。私が影山くんのニュースから目を逸らしている間も、どこかで影山くんは私とまた交わる道がないか思ってくれていた。その事実に、頭を殴られたような気分だった。私の身勝手な理由で別れることになったから、影山くんの方が早々に私を忘れていても、嫌いになっていても―――どうでもよくなっていても仕方ないと思っていたのに。

「なんで……」
?」
「なんで、私、あんな酷いこと言ったのに…」

 今でも覚えている。私が影山くんに言ってしまったことを、一字一句違えずに覚えている。それを思い出す度に、自分で自分の傷を抉るような痛みに襲われる。それだってあまりに自分勝手だ。きっと、もっと痛かったのは影山くんの方なのに。
 宮城を出て本格的にバレーの選手として活動し始めた頃―――生活環境ががらりと変わって一番大変だった頃、私が誰より傍にいるべきだった。私が必要ないほど影山くんが強いことは分かっていても、何か些細な躓きに遭った時、黙って隣にいるのが正解だった。それを投げ出した私が、今もなお影山くんに思われる資格なんてあるのだろうか。

「それ以上に、かけがえなかった」
「嘘でしょ……」
「きっと上手く行くっていうの言葉以上に心強いものはなかった、ずっと」
「は……」
がいつも言ってくれた言葉だ」
「それ、は……」

 それしか言えなかったからだ。影山くんの信じるものをずっと信じられるように声をかけることくらいしかできなかった。仁花ちゃんのように直接部員を支えられた訳ではない、日向くんたちのように切磋琢磨する仲間だった訳でもない。私にできたことなんて、大したことじゃなかった。
 ましてバレーのことは分からない、バレー以上のものにはきっとなれない。そんな私がどれだけ影山くんを好きだとしても、同じだけのものは帰って来ないだろうとどこかで諦めていた。好きなのに信じ切ることができなかった。私は、あまりに自分勝手な子どもだった。影山くんの中で、私はさほど大きな存在ではないだろうと、本人から聞いたわけでもないのに高を括っていた。
 、とまた私を呼ぶ。俯いて何も言えなくなってしまった私に、顔を上げろという声だ。

「まだ、に気持ちが少しでも残っているなら」

 あの日と同じ目をしている。別れを告げた時、私を引き留めようとして、けれどその言葉を飲み込んだ時と同じ目。いつも真っ直ぐ射抜くように私を見下ろす双眸が、不安げに揺れる。ああ、この人にこんな顔をさせてしまったのは私なのだと、同じ罪悪感が蘇る。私はもう一度、影山くんを不安にさせている。

「もう一度、やり直したい」

 あの日私は、影山くんは一人でも平気なんでしょ、と言った。言ってしまった。それを否定する言葉が出ることはなかったけれど、一瞬で揺れた目が物語っていたのは、明らかに否定だった。それを見て見ぬふりして背中を向けた私を、影山くんは追いかけることはしなかった。私が拒否したからだ。

「好きなんだ、今も」

 今度はもう、間違えたくない。もう一度やり直すことができるなら、もう一度償うことができるなら、もう一度許されるのなら。今、その言葉を受け入れることが正しいのだとしたら、同じ痛みを追うような道は選択したくない。そんな資格はないなんて、恐らくそういう話を影山くんはしていないのだ。私の中に、まだ影山くんに対する気持ちが少しでもあるのなら、と、そう言った。

「私も、です」

 少しどころではない。きつく蓋をして鍵をかけただけで、この三年間、その箱の中身は消えてなくなることはなかった。少しでも気持ちが揺らげば、鍵は壊れて中身は溢れ出すような脆さだった。
 許されたとは思わない。償えたとも思えない。私の言ったことはなかったことにはならないし、あの日影山くんを傷つけた事実も変わらない。けれど、それ以前に彼にかけた言葉もまた、なくなっていなかった。影山くんは、そっちの方が大切なのだと言ってくれた。だからもう、間違えたくない。
 良かった、と深い溜め息と共に吐き出して小さく笑う影山くんには、もう高校生の頃の影が重なりはしない。ただ、頬を伝った涙を拭う指先の温かさだけは、何一つ変わっていなかった。