海の底に沈めた箱

 烏野に進学すると決めた時、一番反対したのは親だった。入学してからも喜んではくれず、部活に入ることを禁じられた。遊んでいる暇があるなら勉強しなさいと。進学クラスに入り、家と学校の往復ばかり。そんな中、同じクラスの仁花ちゃんに声をかけられ、私は男子バレー部の部員に関わることになった。そこが私の高校生活の最初のターニングポイントで、私と影山くんの出会いは、そこだった。勉強の合間に三人から聞く部活の話は、決して私が経験しうることのない眩しい高校生活があったのだ。そして、影山くんと別れる十九歳の冬まで、私の生活の真ん中にはいつも影山くんがいた。



 結局、私は仕事を断ることなく引き受けた。曲がりなりにも写真を仕事にしている人間として、ごく個人的な理由で仕事に穴をあけることは自分が許さなかったからだ。今回は何も、プライベートで会う訳ではない。仕事であり、他のスタッフもたくさんいる。二人きりの仕事ではないし、心強いことにも現場に入ることになっている。
 とは言え、決して平常心でいられるはずがない。私が現場に到着してから、影山くんが入って来るまでの間、ずっと心臓がおかしい。いつもとは明らかに違う緊張が私を襲っていた。も気を遣って声をかけてはくれるけれど、なかなか集中できない。三年前、後味の別れ方をしてしまった相手との再会だ。まだ完全に消化できるほど、私は大人になり切れていない。
 高校卒業以来、縁のなかった体育館。本日の撮影に設定されたその場所に足を踏み入れた時点で、何か私は落ち着かなかったのだけれど、影山くんの入り時間が近付けば近付くほど、じとりと手のひらが汗をかいて行くようだ。

「影山さん入りまーす!」

 撮影スタッフの一人の声が響く。どきりとした私の肩を、がぐっと掴んだ。「しっかり」と声をかけて、私より先に体育館の入口へ走って行く。私も行かなければ。私も。
 何度か深呼吸を繰り返して、振り返る。三年ぶりに見るその姿に息が止まる。三年前と同じようで違う、違うようで同じの姿がそこにはあった。精一杯笑顔を作って、名刺を差し出しながら挨拶をする。喉の奥から何かが漏れ出そうなのをぐっと飲み込んで。

「…久し振り、今日撮影を担当するです」
が…フォトグラファー……」

 渡された名刺を見て、影山くんは驚きながら片言で呟いた。数年ぶりの再会に、お互いぎこちない感じがあるのは否めない。けれど、雑談をしている暇はない。限られた時間での撮影だ。この後ライターによるインタビューも別途控えている。周りのスタッフたちも慌ただしく動き始める。私もすぐに仕事に頭を切り替えて、できる限り平常心を取り戻そうと努めた。
 この企画の撮影が半年も続けば、スタッフたちとの連携もスムーズだ。慣れた撮影スタッフたちは指示にもてきぱきと従う。もうあとは、感傷に浸る暇もなかった。周りと相談しながら、私はひたすらシャッターを切る。まさかこんな形で再会するとは思わなかったし、カメラを始めた頃には、影山くんを被写体にする日が来るとは思わなかった。ファインダー越しに、ごく個人的な感情が見え隠れしていたと思う。スムーズに撮影は進み、終わる頃には私もいつもの倍以上疲れていた。
 カメラを片付けていると、後ろからが影山くんに声をかけているのが聞こえて来た。別に盗み聞きするとか、聞き耳を立てている訳ではないけれど、何を話しているかはっきり分かる程度の距離にいれば、どうしても耳に入って来てしまう。会話に入るべきか、しれっと退室するべきか、悩むのに考えがまとまらない。

「慣れない仕事で疲れたでしょ」
「大丈夫だ」
「ねえ、なんでこの仕事引き受けてくれたの?いや、私が言うのもあれだけど、バレーに直接関わるような仕事じゃないでしょ」

 それは確かに、私も気にはなっていた。基本的にこの連載企画については雑誌側主導で行われるので、毎回ピックアップするゲストには私はノータッチだ。これまでも断られた相手もいるというのに、影山くんに関してはあっさり了承してもらえたと聞いて、誰より驚いたのは私だと思う。だから、そのの問いに関しては、私は完全に聞き耳を立てていた。カメラの入ったバッグを持つ手に力が入る。どくんどくんと、また心臓の音が大きく聞こえて来た。

「…………から、」
「え?」
がいるって、聞いたから」

 重い音を立てて、持ち上げかけていた荷物が落ちる。今確かに、と言った。今日のスタッフの中に、『』は私一人しかいない。私に聞こえていることが分かっているのかいないのか、私の耳にははっきりとそう聞こえた。後ろにいる二人がどんな顔をしているのか知らない。けれど、背中に二人分の視線が突き刺さっているのを強く感じる。

「また近々会わないか」
「…………」
、お前に言ってる」
「それ、は……」

「…、こっち向きなよ」

 にも促され、私はゆっくりと振り返る。二人分の視線が、思った通りこちらを向いていた。なんと返事をすればいいのか分からず、前髪をくしゃりと掴んだ。
 泣きそうだ。この感情をなんと言えばいいのか分からない。ここでなんと返事をするのが正しいのかも。だって、三年前に別れを告げたのは影山くんではなく、私の方なのだ。私から別れて欲しいと影山くんに言ったのに。まだ、申し訳なさと後悔に足を掴まれている私が、その誘いに首を縦に振って良いのか、躊躇いが消えない。

「それは…二人で、ってこと…」
「ああ」
「なんで…」
「今日会えたからだ」

 全く問いへの答えになっていない。懐かしいかみ合わないやり取りに泣きそうになる。俯けば泣いてしまいそうなのに、こんな情けない顔を見られたくなくて足元に視線を落とす。すると、私に近付いた影山くんが不意に私の右手を掴む。そして小さなメモ紙を握らせ、ぐっと両手で包む。

「これ、俺の連絡先」
「いや、私は…!」

 なかなか離してくれない手は、いくら振りほどこうとしてもびくともしない。無理矢理に握らされた小さなメモ紙は、雑に扱われたせいできっとぐしゃぐしゃだ。けれどそんなことよりも、影山くんに掴まれた手のせいで動揺が収まらない。ただでさえずっと続いていた緊張のせいで感情が揺れているのに、やっと終わると思っていた一日が掻き乱されてしまう。それなのに、追い討ちをかけるように影山くんは言った。

、待ってる」

 ようやく解放された右手が熱を持っている。まだ影山くんの手の感覚がリアルに残っている。もうずっと、感覚すら記憶の奥底に閉まっていた影山くんの手。あの時よりずっと大人になったそれは、鍵をかけたはずの恋愛の感情を思い出させるには十分過ぎるほどだった。