![]() ![]() 昨日、夏休み前の終業式の中で、壮行会は行われた。挨拶考えておけよ、と言っておいたのに、いざ女子バド部のキャプテンからマイクを渡されたは明らかに動揺していた。何も考えてなかったな、あいつ―――「あー、えー、」と何度か繰り返した後、「がんばります」とだけ言ってはキャプテンにマイクを返した。いくつか横の列から「ぶはっ」と噴き出す声が聞こえた。多分倉持だろう。その瞬間、舞台からとの鋭い目線が倉持に飛んでいた。 舞台から降りるをじっと見ていると、一瞬目が合って、でもすぐにふいと逸らされてしまった。 あれから、とのメールのやり取りは以前に比べると増えた。俺から送る時があれば、から送られて来ることもある。中身は殆ど部活のことだ。お互い、どういう先輩がいつだの、こういう練習がきつかっただの、そういう他愛もないことばかりだ。なかなか自身のことを聞き出すには勇気が要り、「休日何してんの」とか、そういうことは未だに聞けていない。 そんなやり取りばかりで進展はなく、とうとう今日から夏休みに入ってしまった。夏休み初日、練習が終わり、夕飯やシャワーで気付けば二十時前。まだこの後はまた自主練が待っている。用事を思い出し一旦寮に戻ってみると、置きっぱなしの携帯が点滅している。何かと思えば十六時以降延々とからの着信履歴が並んでいた。悠に二十は超えているの名前に思わず寒気を覚えた。そこへ更にから着信が来た。普段は電話なんて寄越さない癖に一体何だと言うのだ。 「…お前なあ、」 『迷子になった』 「は?」 『そっちに帰れない。駅どこ』 「いやお前がどこだよ」 『最後に降りた駅が………新宿?』 なんでそんな所に一人で行ってんだよ!―――携帯に向かってそう叫びたくなったが、相手はだ。怒鳴るくらいで何とかなるような人間ではない。しかも今の時間分かってるのか、こいつ。夜だぞ、夜の新宿だぞ。お上りさんの女子高生がそんな所でがふらふらしてんじゃねぇ、と段々腹が立ってきた。しかも悪びれもしない。 「近くに目立つ建物は」 『…目の前にス○バが』 「どこにでもあるじゃねぇか」 『××店って書いてある』 「じゃあそこ入って待ってろ。いいか、店内から動くんじゃねーぞ!!」 一方的に電話を切る。 とりあえず、こんな泥だらけのジャージで行く訳には行かない。先輩達にも事情を説明しなければならない。とにかく早く行かないとしっかりしているのかしていないのか分からないのことだから、変に誰かに声を掛けられて抵抗できなかったら終わりだ。 適当に服を引っ張り出して着替えると、財布と携帯だけ持って部屋を出る。すると丁度倉持が先輩たちと一緒に通り掛かった。不幸中の幸いだ。 「なんだ御幸、今日はサボりかァ?」 「すんません、クラスメートが新宿で迷子になってるみたいで救出に…」 「それだろヒャハハッ!!」 「そういう訳なんで!倉持あと頼む!」 「待てって誰だ彼女か御幸コノヤロー!!」 純さんが物凄い声と形相で怒鳴っていたが、ちょっと今日ばかりはそれに説明している暇はない。「スンマセン!」と心の中で一応謝りながら、走って寮を出る。 のことは嫌いではない。好きなんだ、ちゃんと恋愛対象として。だからこそ言わせて欲しい。この大事な時期に危ないことするんじゃねぇ、と。なぜ一人で出掛けたんだとか、は誘わなかったのかとか、兄貴はどうしたとか、色々と言いたいことはあるが、とにもかくにもの救出を急いだ。 * に言われた通りの店へ行くと、一人でちょこんと座っていた。帰宅ラッシュに揉まれて予想より遅くなってしまったが、なんとか動かずにいてくれたらしい。テーブルの上には携帯と飲み物だけ。横にはちょこんと小さなショルダーバッグが置いてあり、背中にはラケットケース。他に本など暇潰し道具の一つも持ってなかったらしい。敢えて声もかけずに向かいに座ると、とんでもなく驚いた表情をして見せた。 「迎えに来いって言っといてその顔はねぇだろ」 「あ……うん……」 徐々に目線が下がる。なりに罪悪感は抱いているらしく、消えそうな声で「ごめんなさい」と言う。言ってやりたいことは山ほどあったのに、しゅんとした顔とその一言で何も言えなくなってしまった。最近、はよく表情に出るようになった気がする。お陰でこっちの調子も狂うのだ。 見れば、テーブルの上のアイスコーヒーは手をつけられていない。本当に俺を待つためだけに入ったのか。コーヒー飲めないもんな、。どうせ飲み物の注文の仕方も分からず適当に頼んだのがこれだったのだろう。無表情ながらもおどおどと注文するが簡単に想像できた。 「これ、飲まないならもらうけど」 「うん」 「…マジで?」 「御幸くんにと思って、買った。あっけど、」 「何だこれ、なまぬるっ」 「ぬるいよって、言おうとした」 ごめん、とまたぼそぼそ言って俯く。一度俺の方をを向いた顔が、また下へ下へと下がって行く。けれどの好意を無碍にする訳にも行かず、その生温くなったコーヒーを飲み干し、を連れて店を出る。まだ帰宅ラッシュは続いており、俺よりずっと小さいは人混みに呑まれてしまいそうだ。そう思った傍から、擦れ違う人にぶつかりまくってこけそうになる。 に気付かれないように小さく溜め息をつくと、「服の後ろでも掴んどけ」と言ってやった。すると、控え目にシャツの後ろをきゅっと掴む。何しにこんな所まで来たんだ、とできるだけ冷たい尋問にならないように聞くと、ラケットのガットの張り替えに来たのだと答えた。大会前で調整したかったのだろう。確かの出場するインターハイのバドミントンの試合は八月の頭だったか。今年は隣の神奈川だから遠征しなくて済む、という情報をから聞いていた。 「あと、ついでに兄にも会いに行くつもりで…」 「行けたのか?」 「…行けなかった」 迷ったんだな、と察する。もう東京に出て来て三カ月経っているとはいえ、も部活三昧で遊ぶ暇などなかったのだろう。俺や倉持も休みだって練習しているし、とが出会ったのはまだつい最近だ。東京の地理を覚えるにも覚えようがなかったのだろう。そんな中、よく新宿まで来たものだ。 電車をいくつか乗り継いで、ようやく見知った景色が戻って来る。学校の手前まで来た所で「ここでいい」と言われたが、ここまで来たらそういう訳には行かないだろう。それにもう大分時間も遅い。そういや、こうして二人で夜歩くなんて、の兄がうちの学校に来ていたあの日以来だ。俺は寮だし、練習が終わる時間は俺とでは違う。普段はや先輩たちと帰宅していると言うから心配はしていなかったが、もしかして一人自主練で残っていたりすることはあるのだろうか。もう少し危機感を持つように言っておかなければならない気がする。 やがての住むアパートの前に到着する。いつの間にか離れていたの手。かなり控え目に掴まれていたため、心配で何度も振り返りながら歩いて来た。終始は俯いたままで、随分落ち込んでいるのが背中から伝わって来た。まあ確かに、俺も態度に出し過ぎたか、と反省した。 最後に、一つに訊ねたいことがあった。 「、なんで倉持じゃなくて俺にかけた?」 「…御幸くんなら、笑わない気がした」 「は?」 「来てくれる、気がした」 なんだそれ、すげぇ殺し文句。そんな確実性も何もないような俺に、二十回を超える電話をかけ続けたのか。何時間も、諦めることなく。俺が寝る前にしか携帯を見ていなかったらどうするつもりだったんだ、は。 好きな相手に頼ってもらえることは嬉しいが、呆れてしまった。それこそ、でも先輩でも、マメに携帯を見る倉持でもよかったんじゃないか。笑う笑わないの問題じゃない。今度こそ、肺いっぱいの空気を吐き出すようなため息が漏れた。それに対し、また「ごめん」を発する。 「…あ、そうだ」 「まだ何かあんのか?」 「これあげる」 「ビ○レさらさらシート…」 「配られているの貰った。無香料だからそんなフルーティーな香りしない。だから、御幸くんが使っても大丈夫、多分」 「俺から甘い香りしてたら気色悪いだろ…そういうのはが…」 「私が…?」 が使うべきだろ。そんな言葉が口を突いて出て来そうになった。あの甘い香りがからすると思うと、ちょっと、いや、かなりぐっと来るものがある。最近、でいろいろ妄想し過ぎだろう。授業中、立ち上がる際に見える膝裏をじっと眺めてしまったり、髪を結んでいる時に見える白い首を見つめたり、歩く度に揺れる髪とスカートに目が行ったり。 は私服でもやっぱり長袖を着ていて、決して腕を見せようとしない。その薄い布一枚下を、どれだけ想像しようとしたことか。けれどそれ自体に罪悪感が生まれ、結局目の前のを少しでも俺の妄想で汚すことなんてできなかった。から甘い香りが、というそれだけでもう。 「や、なんでもねーよ」 「そう」 「あとな」 「なに」 「“ごめん”の安売りはよくねえぞ」 小首を傾げて見上げて来る。もうそれやめろ、とは言えず、俺の方が視線を逸らした。 「代わりに“ありがとう”って言っときゃいーの」 「…ありがとう、御幸くん」 「よし」 すると、嬉しかったのか僅かに頬を染める。 を、自分だけのものにしたい。好きだと言ってしまいたい。力いっぱい抱き締めてみたい。もっと色んな表情を見たい。に言われたことは尤もだ。が悩んでいるんだろうな、ということは薄々気付いていた。気付いていながら気付いていない振りをした。多分、周りから見れば狡いんだろう。けれども分かっているはずだ。夏は一番大事な時期だと。 夏が終われば。夏さえ終われば。そう自分に言い聞かせて、その日はと別れた。あとは、煩悩を振り切るように走って帰った。 (2014/07/11) ← ![]() |