その日は、緊急招集とかで烏丸くんは午後の授業を休んだ。休んだ、という言い方は違う、休まなくてはならなくなった、だ。他のクラスのボーダー隊員の子たちも時々そういうことがあるらしいけれど、私が実際それを目の前で見たのは初めてだった。 午後の授業は数学Aとライティング。定期考査にあまり関係のない授業だったらよかったが、この二つは間違いなく定期考査に入って来る授業だ。烏丸くんが成績が危ういなんて話は聞いたことがないけれど、それでも授業一回分が抜けるのは結構痛い。いつもなら授業が全て終わればすぐに教室を出るけれど、今日はルーズリーフに授業内容を写して過ごすことにした。烏丸くんにこれを渡すなんて余計なお節介かも知れないし、クラスの他の誰かに借りるかも知れないけれど、その時はその時だ。 一人二人と教室からクラスメートが出て行く。部活なり委員会なり、あるいは下校なり、各々が目的の場所に向かう。誰もいなくなった頃、私は烏丸くんの机の上を見た。数学の教科書とノートが広げられたままだ。鞄は持って行ったようだったけれど、どうしてか目の前にあるこれらを忘れて行ってしまったのか。もしかすると、これくらいなら烏丸くんは今日はもう学校に戻って来ないかも知れない。けれど、この開けっぴろげの教科書とノートをこのままにして帰るのはなんだか悪い気がした。かといって勝手に触って良いものだろうか。ペンケースも出しっぱなしだ。私のルーズリーフを渡すくらいならきっと明日でもいいだろうし、せめて烏丸くんの教科書類を机の中にしまうくらいなら許されるだろうか。 その時、何の前触れもなく、がらっと教室のドアが開けられる。驚いて入口を見ると、見たことのない男子生徒が立っていた。少なくとも一年生ではないと思う。 「あれ、まだ誰か残ってた?」 「電気ついてるんだからいると思いますよ。…?」 烏丸くんの教科書に手を伸ばそうとしていた所を、丁度本人に見られてしまった。気まずくなって、思わず手を引っ込める。戻って来ていたとは思わなかった烏丸くんその人が、こっちに向かって歩いて来る。いや、彼の席は私の隣だから方向が同じだけで、私の元へ来ている訳ではないのだけれど。私は慌てて、自分の机の上に広げているノートやルーズリーフを隠した。 「もう暗いけど」 「今帰ろうと思っていた所だよ」 「送る」 「いいよ、先輩と一緒でしょ?」 「知ってるのか?」 「敬語だったから。それに見たことないし…」 どうしようか、渡すか、渡さないか。でも渡すなら早くしないと、とろとろしていたら烏丸くんは帰ってしまう。先輩を待たせているようだし、その先輩もこちらをじっと見ている。多分、急かしているんだと思う。それなのに、烏丸くんはあろうことか「先に帰ってて下さい、出水先輩」なんて言う。先約は先輩だったはずなのに、さくっとあしらってしまった。私のことは良いから、と言っても最早烏丸くんは聞く耳を持たない。先輩も先輩で「はいはい」なんて言って去ってしまった。すみません、と頭を下げるけれど申し訳ない。 暗いと言っても真っ暗ではないし、家までさほど時間がかかる訳でもない。確かに普段は一緒に帰ることが多いけれど、何も他の人を待たせている時に私を優先なんてしなくていいのに。 「がこんな時間まで残ってるなんて珍しいな」 「ちょっと、用事してたから」 「用事?」 どうしようか悩む。烏丸くんに渡すルーズリーフを写すためだけに残っていたなんて、なんだか恥ずかしくて言えない。それ以上は追及されなかったけれど、不思議そうな顔をする烏丸くんに、私は笑って誤魔化した。そして、別にそれが目的でなかったかのように言いながら、私は数学?Tとライティングのルーズリーフを渡した。 「これ、今日の授業の分。よかったら…」 「くれんの?」 「いや、他に誰か見せてもらう人がいるなら別に、」 「いない」 私の言葉を遮って返事をする烏丸くん。ルーズリーフを受け取って、ぱらぱらとめくって読んでいる。黒板の内容そのままだから別に何でもないのに、何となく恥ずかしくて私は彼から目を逸らした。助かった、と言ってくれたけれど、ううん、としか答えられなくて、私は俯く。 私は、本当は待っていた。もしかしたら学校に戻って来て、教室に寄るんじゃないかと、決して確実でない期待をしていた。明日会えばいいものを、その明日を待てなかった。さすがにもっと暗くなって、先生が見周りに来て追い出されたら帰るつもりだったけれど。待っている時間は全く苦痛ではなかった。烏丸くんのことを考えて待っている時間はむしろ、感じたことがないほどどきどきしていた。 最近の私はどうにも変だ。もうずっと、極力人と深く関わることを避けて来たのに、烏丸くんだけは避けられない。 「?」 「烏丸くん、私、」 「なに」 「私、本当はさっきまで、待っていたの」 それはきっと、烏丸くんが私を避けないからだ。一度見たもの、読んだものは決して忘れない―――それを優れた能力だとは思ったことはない。私は、ずっとそれを気味悪がられてきた。気持ち悪い、気味が悪いと言われ続けたこれを、烏丸くんは決してそうは言わなかった。あまつさえ、助かったと言ってくれた。すごい暗記力だと言ってくれた。普通に接してくれた。だからと言って、それが誰でもよかった訳ではない。多分、烏丸くんだから嬉しかった。私のことを心配してくれて、丁度いい距離を保ってくれて、私の近くにいてくれる。 けれど、私を心配して、気を遣ってかけてくれた言葉を、私はいくつも跳ね退けた。烏丸くんからバイトの話やボーダーの話を聞く度に、羨ましいと思いながら、いざ私に話を振られると、上手く言葉が出て来なかった。私には何もない。烏丸くんに話せるだけのものを、私は持っていないし経験していない。私でもできる仕事を紹介する、と言われた時だって、それを拒んだ。 「烏丸くんを、待ってた」 「…そっか」 「うん」 「じゃあ、やっぱり送る」 「…うん」 今度は大人しく従う。私の少し前を歩く烏丸くんは、今日は何も話してくれなくて寂しくて、けれどきっとボーダーの任務が大変だったのだろうと自分に言い聞かせた。そうじゃないと、何かに心が押し潰されそうだった。拒んだ癖に、拒まれれば苦しい。自分勝手な臆病者だ。誰でもいい訳じゃないのに、この人がいいと思った相手にいざ気持ちを向けられると怖くなる。 無防備なその手を掴めるくらいの勇気があれば、きっともう一歩くらい踏み出せるのに。そう思った時にはもう分かっていた。私は、烏丸くんが好きだ。 ![]() (2016/01/23) |