あの後、少し遅れて俺とは教室に戻った。幸い、まだ先生は教室には来ていなくて注意されることは免れたが、クラスメートの注目を少々浴びることにはなってしまった。 何ができる、と聞いた俺に、はいつものように小さく笑うだけだった。何もないよ、とでも言いたげに。これまではずっと一人で乗り越えて来て、だからある程度のことは自分で解決できてしまう。そうでなければあんなに穏やかでいられないだろう。けれど、それと人を必要としないのとは違う。これまではそうだったかも知れないけれど、これからは分からない。一人じゃ対処できなくなった時に、はどうするのだろうか。守ってくれるような―――味方になってくれるような親しい人間はいるのだろうか。 (いるとは思い難いな…) 午後一番という眠くなる授業の中でも、開いた教科書の中身は既に全て頭に入っていても、はいつも居眠りひとつせず授業を受けている。黒板とノートを交互に見て、シャーペンを動かす。俺の視線に気付けば、そのシャーペンで黒板を指した。前を見ろ、ということらしい。怒った様子もないが、困ったように笑う。 多少踏み込んだ話はしても、の態度はそれまでとまるで変わらなかった。だから俺も気を遣うことなんてなかったけれど、を見る目が変わったのは確かだ。よく見てみると、体育の時間の前後は少し表情が暗い。ぽつんと一人で見学している姿はあまりにも寂しい。 エネルギーを使う、というのがどれほどのものなのかは分からない。少し走るくらいで息切れするのか、休日はぐったりして動けないのか、家に帰った途端寝込むのか、それとも動いたせいで記憶力に何らかの影響があるのか。けれど、考えても考えてもきりがない。から聞かないことには分からないことだらけなのだ。 「烏丸くん、今日は支部?」 「いや、今日はバイト行ってから」 「本当大変だね、私には想像できない」 「…やってみたいとか、思わないのか」 「バイト?」 「バイトでもいいし、部活でも」 「あんまりそういうのはないかなあ。集団行動苦手だし」 時々帰りを一緒にするのも変わらなかった。相変わらず他愛もない会話をして、長くもない時間を歩き、分岐点まで来たら惜しさの欠片も見せずには手を振る。 何をに期待しているのだろうか。別に、自分は他のクラスメートより少しのことを知っているだけで、友人と言うほどの関係を築けているわけではない。も俺をどう認識しているのかは分からないけれど、俺にいろいろ聞いて来るものの自分のことははぐらかすのが上手い。それが、十六年生きて来て彼女が見に付けた術なのかも知れない。自分のことを話さないことで、自分のことを守る。自分のことは自分でしか守れないと思っている。「烏丸くんにできることはないよ」と言われたあの時、柔らかな拒絶を感じた。遠慮じゃない、明らかに拒まれたのだ。 「…でも」 「うん」 「烏丸くんの話聞いていると、いいなって思うことがあるよ」 「例えば?」 「玉狛支部の話。楽しそう、すごく。不謹慎かも知れないけど、師匠とか弟子とか、そんな関係普通に暮らしていたらないでしょ?」 「まあ、そうだよな…」 「仲間がいるって言うのはいいよね」 時々ボーダーの先輩にも呼び出されているでしょ、なんて言いながら笑う。そこに加えて、仲良いよね、と続けた。…特別仲が良い訳ではないが、わざわざ否定するのもどうかと思って何も言わないでおいた。 やっぱりは、寂しいのだと思う。他校に友人がいるのか、他のクラスに友人がいるのか、やはりそこも見えて来ないが、の口から他人の名前が出たことがない。それが答えだと思った。は毎日学校へ来て、授業を受けて、俺とだけ話して帰る。それを繰り返しているだけ。作業のような日常だ。自分もそのルーチンの中に組み込まれているのかと思うと、なんだかもやっとした。 「…が嫌じゃないなら」 「うん?」 「事務系の仕事、紹介するけど」 「……えー、と…」 「支部長に聞いてみないと分からないけど」 「それって、もしかしなくてもボーダーの、だよね?」 とは来年また同じクラスになれるか分からない。もしクラスが分かれた時、今みたいにと話す時間なんてできるのだろうか。もっと先、高校を卒業してからもと関わりを持ち続けることはできるのだろうか。今のままならきっと無理だ。けれど、は嫌がるかも知れないけれど、もう一歩、あと一歩踏み込めれば、今年限りにはならないのではないだろうか。 もちろん、本当にボーダーの仕事を手伝えと言っているわけではなかった。俺にそんなことを決める権限もないし、人手が足りていないわけでもないと思う。ただ、これくらい言ってみないと、には何も響かないんじゃないかと不安になった。何を言っても“他愛のない会話”で終わってしまって、の記憶には何も残らないんじゃないかと。 「…無理じゃ、ないかな」 「…そうか」 「烏丸くん」 「なに」 「私のことなら、大丈夫だよ」 そう言っている時ほど危ないのだ。大丈夫じゃない人間ほど大丈夫だと言いたがる。大丈夫じゃないなんて言えないのだ。もう、とてもじゃないけれどが大丈夫なようには見えなかった。 ![]() (2016/01/21) |