と距離が近くなったからか、それまで聞こえて来なかったの噂がやけに耳に入って来るようになった。興味が湧くとこうも変わるものか、と思ったが、でいれば聞きたくないような噂ばかりだった。高校入学以来、ああやって一人でいれば浮くし、女子は特に集団になって悪く言うのが好きらしい。けれど、実際のはどの噂ともかけ離れていたので所詮噂は噂だ、という結論にしか至らなかった。
 ただ一つだけ気になることはあって、それはどうも単なる噂ではなく事実のようだ。遠回しに聞くのも何なので、本人に直接聞いてみることにする。
急遽自習になった教室は与えられた課題プリントを真面目にやっている生徒の方が少なく、喋りながら進めている人間の方が多い。そんな中、はざっとプリントを眺めて、今まさに課題をし始めようとしていた。

って何か病気?」
「病気?」
「体育全部休んでるって」
「ああ…」

 カチカチ、とシャーペンの芯を繰り出して、プリントの上部に「」と名前を書く。古文の教科書に書き込まれていたのと同じ、読みやすく整った字で。
 はこちらを見ない。やはりこれは触れない方がいい話題だったのだろうか。それとも、クラスメートと言う人目が一応ある中では話しにくいことなのだろうか。それきり黙ってしまったは、プリントを進めるでもなく、俺を無視するでもなく、何やら考え込んでいるようだった。俺の問いへの回答を探しているらしい。
 困らせたかった訳ではない。流石にそこまで悩まれるような問題だとは思っていなかったため、デリカシーが足りなかったかと反省した。

「いや、いい」
「え?」
「話にくいことだろ、悪かったな」
「あ、いや…ううん…」

 歯切れの悪い返事に、暗くなる表情。完全にの手は止まってしまった。

「昼休みにでも、ゆっくり」
「……昼休みな」

 思わぬ言葉がから出て、一瞬反応が遅れた。それからはお互い何も話さず、ひたすら課題を進めていた。はあっという間に終わってしまったようで、別の授業のテキストを取り出して予習を進めている。
 こういう所は真面目だと思う。終わってしまえば寝るクラスメートも出て来るのに、まだ勉強を続けている。適当な暇潰しも何もせずに。そうやって、あの古文の教科書のように全て頭の中に入れているのだろうか。けれど、人間の記憶力と言うのは限界がある。古いものから忘れるように脳はできている。もしが、“凄まじい暗記力”ではなく“凄まじい記憶力のせいで忘れられない”だとしたら、それは苦痛ではないだろうか。
 そこまでようやく考えが及んで、が自身のことを多く語らない理由の輪郭がぼんやりと見えてきた気がした。俺は、あまりに軽率だった。



***



 約束通り、は昼休みに俺を連れて教室を出た。他クラスからの訪問者も多い昼休み、俺たち二人が抜けた所で誰も気付きはしない。クラスメートがに興味がなければ、なお。
 やって来たのは空き教室だった。そこで窓際まで足を進めると、は窓を開ける。その瞬間、この教室に停滞した空気が動いた。窓を背に、は俺を振り返る。もうちょっとこっち、と言って手招きをされ、その通りにに近付く。適当な席に座ると、ぽつぽつとは話し始めた。

「すごい暗記力だって、前に言ってくれたよね」
「ああ、確か古文の…」
「でもね、別に暗記力がすごい訳じゃなくて…なんていうのかな、一度見たら覚えちゃう、っていうのかな。忘れることができないの」

 やはりそうだった。苦笑いするは、その先の言葉を探しているようだ。
 窓から入る風で、の髪が揺れる。耳にかけた髪も、その仕草自体が無駄だとでもいうようにまた簡単に髪は乱れてしまった。やがて、彼女は俺に背を向ける。それ以上話せないなら、と言おうとしたが、それより先に言葉をかぶせられてしまった。

「意外と頭ってエネルギー使うんだよね。体育の授業に出るだけの体力が残らないんだ」
「…それで、見学」
「ズル休みだって言われてるのは知っているよ。今日もそうだったし…烏丸くんはそれを聞いたんでしょ?」
「…………」
「別に責めてる訳じゃないよ、いずれ知られるだろうとは思ってたし」

 口ではそう言いつつ、声のトーンが落ちているのは明らかだった。華奢な背中が寂しさを訴えている。けれど、そんな彼女にかける言葉が何も見つからない。忘れられない苦痛と言うのは、記憶に使うエネルギーというのは、俺には一生理解しえないことだ。いわゆるサイドエフェクトと同じようなものなのだろうが、それはだけのもので、誰とも共有することができない。どれほどの苦痛があるのか、それは俺の想像の範疇を出ないのだ。想像でしかない限り、を理解することはできないような気がした。軽々しく踏み込むような領域ではなかったのだ、今はまだ。
 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。こんな空気のまま、教室に戻らないといけない。まだ午後には二つ授業が残っていて、二人して教室にいなければ流石に変な疑いをかけられる。また、にありもしない噂が付いて回ってしまう。


「なに?」
「教室、戻るか」
「…そうだね」

 ゆっくりと窓を閉め、鍵をかける。ようやくこちらを向いたの表情は、いつもと違う、少し無理して作ったような微笑みを浮かべていた。ぎこちない表情を見て、俺は事の重大さを思い知る。
 どうすればいい。を傷付けようと思っていた訳じゃない、いや、それはも分かっているはずだ。けれど、聞かれたくないことを聞かれて、話したくないことを話さなければならない状況にしたのは間違いなく自分だ。

「…俺は」
「うん」
「そのの記憶力に助けられた」
「うん…」
「じゃあ、俺に何ができる?」

 とうとう、授業の始まるチャイムが鳴る。もう授業には間に合わない。奇しくも、次はチャイムと同時に先生が教室に入って来るあの古文だ。
 俺の問いかけに、はただ瞬きを繰り返すだけだった。





 

(2016/01/16)