菅原さんと過ごす二回目の休日がやって来た。菅原さんの勤めているデザイン会社の関わる写真展に誘われたのだ。チケットが山ほどあるから、と言って。写真のことなんてあまりよく分からないけれど、断る理由もない。それに、最近は菅原さんからメールがないとなんだかもやっとして、電話の後は気分が落ち込んで、会っている間は、声を聴いている間は落ち着いていられる。だから、どんな理由であれ休日に会えることは少なからず嬉しかった。

仙野!こっちこっち!」

 いつの間にか菅原さんは、私を“仙野さん”ではなく“仙野”と呼ぶようになっていた。いつからだったか、初めて菅原さんの家に泊まった日以降だっただろうか。本人が意識してなのか自然とそうなったのかは知らない。そもそも、年下の私にあれだけ長い間さん付けで呼ぶのもなんだか奇妙な話だったのだ。

「すみません、遅れました」
「や、時間ぴったりだろ」
「もうちょっと早く着く予定だったんですが…」
「仕事じゃないんだから気にすんなって」

 そう言うと、菅原さんは私の頭にぽんと手を置いた。ごく、自然に。…菅原さんに妹や弟がいるのだろうか、そういう人はこうしてあまり躊躇いもなく頭を撫でたりすると聞いたことがある。それを思うと、私は未だ菅原さんのことをあまり知らないのだと知った。私ばかりべらべらと昔のことを喋ってしまっている。
 じゃあ、菅原さんは。これまで菅原さんはどんな人と付き合って、どんな所へ出掛けたのだろうか。こんな風に、職場でもらったチケットで展覧会に誘ったりしたのだろうか。

「どうした?」
「え、あ、いや…」

 その目をじっと見つめてみた所で何かが分かる訳ではない。すぐに離れた菅原さんの右手を目で追っていると、次はその手が私の左手を捉える。

「今日初日だから、多分すっごく混んでる」
「でしょうね」
「人酔いする方?」
「大丈夫です」
「ま、あんまり酷かったら帰ればいいべ」

 ああ、そうだ。あの日から菅原さんは私に触れることも多くなった。何の前触れもなく手を引かれたり、さっきのように頭を撫でられたり、そんなことはもうここ数週間で結構な回数に達している。それが嫌じゃない自分がいることも不思議だ。触れられることがどんどん普通になって行く。自然になって、違和感がなくなる。少し前なら、手を繋がれた瞬間に一瞬息が止まっていた。本能的に「この手じゃない」と訴えていたのだ。他の誰でもない、記憶の中にある影山くんのそれと比べて。
 それは良いことなのか、悪いことなのか。周りに言わせれば良いことなのだろうが、そういう一種の拒絶反応がなくなるということは、影山くんのことを私がどんどん忘れて行っているようで、そこに戸惑いはあった。忘れた方がいい、前へ進んだ方がいい、そんなことは分かっているけれど、忘れたくないことが確かにあるわけで、そこを上書きしてなくしてしまうことに耐えられない自分がいた。

「やっぱりすごい人ですね…」
「やめとくか?」
「いえ、せっかくですし…今日を逃したら来られなさそう」
「なんで?」
「え…?」

 会場前には既に人の波ができていて、誰もが入場を待っている。まだチケットをもぎってもらう所まで辿り着いていなくて、周りを見渡しても携帯を触っているか同行者と喋っているかのどちらかだ。そんな人ごみの中では私たちの会話なんて誰も聞いてはいない。だから、誰も助けてくれはしない。何となく口にした一言に、菅原さんが表情を消してなぜ、と問うて来た所で。

「なんで、て…言われても…」
「本当は来たくなかった?」
「ち、違う…」

 そう言うと、私の手を握る力が痛いほどに強くなる。けれどそれを口にできるような雰囲気ではなくて、初めて威圧的な空気を出した菅原さんに、私はただ戸惑うしかなかった。ともすれば息も止まりそうな鋭い目をした菅原さん。怒らせたのは間違いないのに、なぜ怒っているのか分からない。そんなにも気に障る一言だっただろうか。いや、確かに失礼なことは言ったかも知れない。会社で配られたチケットとは言え、「もう来ないかも」なんて、興味がないと言っているのと同じだ。違う、そうじゃない。私は今日、菅原さんと会えるのであれば理由なんて何でもよかった。写真展だろうと、買い物だろうと、ランチだろうと、何でも。
 その視線から逃れたくて俯くと、それを制するようにまた「仙野」と呼ばれる。聞いたことのない強い口調だった。すると次は、無言で私の手を引いて来た道を引き返す。人ごみを押しのけながら強引に会場から離れて行く。やがて開場前の喧噪が遠くなる程度の場所までやって来ると、ようやく菅原さんは私の手を離した。手首にはまだ、掴まれていた時の痛みと熱が残っている。

「この際だから聞くけどさ、仙野、俺といつ終わるかってことばかり考えてない?」
「それ、は……」
「明日か、明後日か、一週間後か、一か月後か、俺がいつ仙野を手離すか、そればっか気にしてるだろ」
「あ……っ」

 何かを言う暇なんてなかった。菅原さんは言いたいだけ言うと、ここが外だと言うことも気にせず私を抱き締めた。強く強く、私が経験したことのないような力で引き寄せられる。今度こそ、呼吸が止まるかと思った。何度瞬きをしても私を離す気配はなくて、もうくっついて離れられないのじゃないかと言うほど、菅原さんはまるで自分に押し付けるかのように私を抱き締めていた。

「俺は仙野を手離す気はない」
「すが、」
「まだ、仙野の気持ちが影山に向いていても」

 何を言えば良いのか分からなかった。胸が苦しいのはこんなにもきつく抱かれているからか、菅原さんの言葉が突き刺さったからなのかも分からなかった。
 分からないから、どうすればいいのかも分からない。自分の気持ちすらも分からない。今、辛いのか、苦しいのか、嬉しいのか、何も分からない。ただ困惑だけが涙になって、私の両目から溢れた。





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(2016/01/07)