はっきりとしたきっかけはない。ただ、気付いたらのことが特別になっていた。妹の面倒を見るような、そんな優しいものではない。最初は「他の誰かでも良い」と思っていたポジションを譲りたくなくなった。の泣く場所は俺の所が良いと思うようになった。その泣く理由が影山だとしても、俺の所で泣けばいいと。他の誰にもそんな顔を見せないで欲しいと、日に日に独占欲は増して行くばかりだった。
 けれど、まだと出会って長い時間を過ごした訳でもないし、の全てを知っている訳でもない。中途半端に踏み込めばまたはするりとすり抜けて行くだろう。きっと、その術を彼女は持っている。けれど、もうこれ以上は待てないと思う自分がいるのも事実だった。

「私を、待たないで下さい…」

 ほら、出た。相手に終わりを告げられるくらいなら、自分で終わらそうとしている。最近、が少しずつ変わってきている事には気付いていた。別れ際に見せる惜しそうな顔や、電話の最後にトーンの落ちる声、それから、俺が触れても緊張しなくなった。それでも何となく感じていた。は終わりばかりを気にしていることを。
 腕の中のの声は震えていた。いつかのように俺の背中に手を回してはくれなくて、今日で終わりにしようとしている。そうはさせるものか、ともっと強く抱き締めれば、は流石に「苦しい」と抵抗を見せた。
 影山に執着しても仕方がないことはが一番よく知っている。もう戻ることのない関係であることを、目の前で見てしまったのだから。だから、彼女はこれから誰も選ばずに生きて行くと言うのか。

を待つかどうかは俺が決める」
「待たなくていいです…!私は、」
「俺はが好きだよ」
「や、やだ…!」

 耳を塞いで駄々をこねるように頭を振る。そんなの両手を握った。ぼろぼろと零れる大粒の涙が、アスファルトにぽたりと落ちる。
 初めてだ。が俺の前で影山のこと以外で泣いたのは、これが初めてだ。それが混乱でも、動揺でも、困惑でも、どんな感情を含んだ涙かは分からないが。瞬きの度に溢れる涙を、そっと拭ってやった。それを拒むこともしないは、確かに変わった。だから、今じゃないのか。の気持ちをこちらに向けるとしたら、今がいい機会なんじゃないか。にとっても俺にとっても。どこかで解決しないといけない問題だ。タイミングを逸してしまえば、また振り出しに戻ってしまう。いや、二度とそんなチャンスは来ないかも知れない。

「なんで、菅原さんは…」
「好きだから、てさっき言った」
「だから、なんで」
「なんでだろうな…」

 そう言いながら、額を合わせる。けれど今度はは逃げなかった。まだ少しずつ流れる涙で目を潤ませながらも、俺の目を見つめる。また明日になったらの目は腫れているんだろうな、なんて呑気なことを考えながら、そっと唇を合わせた。その瞬間だけ、は瞼を閉じる。ほんの一瞬だった。すぐに離れると、まだ同じ表情のがそこにはいる。

「…嫌だった?」
「いや…じゃ、ない…」

 その言葉を聞いて、もう一度キスをしようとした。けれど、よく考えればここは外で、もう一度してしまえばきっと歯止めが利かなくなる。
 結局、写真展は行かず仕舞いになってしまった。どうせ社員には無料で配布されたチケットだ。それに、今日でなくてもいつでもいい。ポケットの中でくしゃくしゃになったチケットのことなんて、瑣末な問題だ。
 そのままどこにも寄らずにまっすぐうちに着いて、そこにはもいて、玄関の鍵を閉めた瞬間、もうどうしようもなくなった。、と名前を呼ぶと振り向き、その隙をついてまた唇を重ねた。押しつけた、と言った方が良い。でもももうこの先のことを察したらしく、何も言わなかった。抵抗も拒絶もしなかった。さっきとは違う、背中に確かに腕を回された感覚があった。時間なんていくらでもあるのに玄関で我慢できないなんてまるで子どもみたいだ。何度も何度も角度を変えては唇を押しつけた。それに応えようとするがいじらしくてどうも歯止めが利かない。
 も同じ気持ちだといいと思った。俺がを欲しているように、も俺を求めてくれればいいと。そこには比較対象なんて誰もいなくて、俺だけを見てくれればいい。他の誰かが入り込む隙間なんてなくなってしまえばいい。
 願うようにそう思いながら、その日初めてを抱いた。





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(2016/01/11)