結局その日の夜、泣き疲れたさんはうちに泊まって行くことになった。コンビニで適当に夕飯を買って、ついでにさんの好きなプリンも籠に入れて、BGMらしいBGMにもならないテレビをつけた部屋で、二人でコンビニ弁当を食べた。真っ赤に腫れたさんの目は痛々しくて、それでも少ない会話の中で俺と目が合うと弱々しく笑って見せる。 まだ笑うのか、と思った。それと共に俺の方が苦しくさえ感じた。何とか空気を変えようと思っても、俺がさんを泣かせた癖にそうすぐに重い空気は軽くならない。 これから別段何かしようという訳でもないのに、あんなに緊張する夜は初めてだった。ただ、泣くだけ泣いたせいで俺に気を許してでもくれたのか、隣に座る距離が少しだけ縮んだり、何か話題を探そうときょろきょろしてみたり、明らかにそれまでと俺に対する態度は違った。 (甘え方を知らなかっただけなのか…) 本当のところはどうか分からないが、いよいよ眠気がさんを襲う頃、同じベッドで寝ることに抵抗を示さなかった。だが結果、何もなかった。何もなかったのだ。二十代も真ん中頃の男女が二人、一つのベッドで夜を過ごしたにも拘らず、全く何もなかった。それも二度目だ。 寝付いてしまったさんはようやく穏やかな顔をしていた。初めて寝顔を見たあの日は、眠っていても辛そうで、涙を流していた。向かい合って眠りながら、俺に出来ることと言えば彼女が悪夢を見ないよう祈ることくらいだった。 庇護欲というのはこういう気持ちのことをいうのだろうか―――半分眠りかけの頭でぼんやりと考える。今、彼女を本当の恋人として扱いたいと思っている訳ではない。けれど手離したくない。他の誰かの前で泣くくらいなら、ずっと俺の前で泣いていればいいと思う。影山のことが全て空っぽになるまで、ずっと。 (…それもなんだか醜いな) はっきりしないまま彼女を自分の元に縛りつけておくのは何かが違う。そもそも、彼女に影山のことを忘れる気があるのか否か―――いや、忘れるなんて最初から無理なのだ。俺には推し量ることのできない大きさの気持ちで思い続けて来た相手を忘れるなど。彼女はこれまで出会った男性を全て影山と比べて来たのだろう。影山ならこう言う、影山ならこうする、影山ならきっと―――そんな風に、記憶の中で生き続ける高校生の影山に縋りながら。 そしてそれはきっとこれからも続く。俺が言葉をかけても、俺が手を繋いでも、俺が抱き締めても、それら全ては彼女の思い出の中にある影山と比較されているに違いないのだ。「菅原さんじゃなくて影山くんだったら」と思うことだってないとは言い切れない。 けれど、面倒なことになってしまった。ここまで首を突っ込んでしまった俺がもう、彼女を放っておくことができない。 そっと抱き寄せてみる。身じろぎひとつせず眠る彼女の体は温かい。規則正しく呼吸を繰り返し眠る彼女を、俺はどうしたいのだろう。少なくとも、今のポジションを誰かに譲りたいとは思えなくなってしまった。けれどこれは俺の元々の性分のせいなのか、さんを特別視し始めているからなのか、そこまではまだ自分でも分からないのだ。 そんな俺の葛藤も知らずに寝息を立てるさんは、もう寝言で誰の名前も呼ばなかった。 *** 目を冷やさなかったせいで、翌朝の私の目は再びとんでもないことになっていた。瞬きもだるい私の目を見て、菅原さんは笑いを堪える。せっかくの休日なのにこんな顔ではどこへも行けない、なんて言うと、どこかへ行くつもりだったのか、と驚かれてしまった。 「休日は大体、出歩いているので」 「何してんの?」 「や、特に目的は…カフェに行ってみたり、本屋に行ってみたり…気まぐれです」 「じゃ、今日はさんに付き合ってみるか」 「菅原さんは普段外に出ないんですか?」 「多分さんほどは出てないよ」 食パンを二枚焼きながら、今日の予定が決まってしまったようだ。そう言えば、休日に菅原さんと二人と言うのは初めてのような気がする。仕事終わりに夕食を一緒にすることが殆どで、丸一日を菅原さんと過ごすのは、そうだ、初めてだ。 今、この菅原さんの部屋には昨日の夜が嘘のような穏やかな朝が訪れていた。パンの焼けたトースターの音、私の飲めないコーヒーの香り、レースのカーテンの向こうから入って来る暖かな日差しが今日の天気を表している。 あれだけ泣いたとは思えないような私に、あんな話を聞いた後とは思えないような菅原さん。とてもではないが、蒸し返したり続きを話したりするような雰囲気ではない。当たり障りのない、とでもいうのだろうか。いつも菅原さんと会う時となんら変わらない。本当は少し安心していた。あれだけ未練だらけの話をして、もう一度菅原さんは同じように笑ってくれるのかと不安だった。私の泣き場所を作ってくれた菅原さんを手離したくないだなんて、自分勝手にもほどがある。ビジネスライクな付き合いというのは、決して都合のいい付き合いとは意味が違うのだ。 「私の行きたい所でいいんですか?」 「うん。あー、でも映画は寝そうだなあ」 「あ、私もよく寝ちゃいます」 「じゃ、映画はなしな」 そう言って悪戯っぽく笑う菅原さん。一体何度、私はあと一体何度その笑顔を向けてもらうことができるのだろうか。菅原さんに気になる女性ができたら、恋人ができたら、結婚相手ができたら―――それとも、私が面倒臭くなったら。 まだ心のどこかでいろんなことを影山くんと比べてしまう癖に、空いてる片手では菅原さんを掴んでおこうとする。もういっそ、影山くんのことなんて忘れてしまえたら楽なのに―――何度も何度も考えたことだ。誰かが私に優しくしてくれる度に、自分に言い聞かせて来たことだ。執着しても仕方ない相手、もう手の届かない相手、これほど不毛なことなんてないというのに、なぜいつまでも右手で影山くんの背中を掴もうとするのだろう。もういっそ全て手離して菅原さんの所へ飛び込んで行けたなら、夢の中でさえ泣くこともなくなるだろうに。 飲み慣れないコーヒーが苦くて、また少し泣きそうになってしまった。 ![]() (2015/12/31) |