影山くんが褒めてくれたことが、二つだけある。一つは体育館でよく通る私の声、もう一つは初めてのデートで来たラベンダー色の服。その色に似合ってるな、って珍しく言うものだから、私は今でもその色を好んで着る。結婚式に着て行ったパーティードレスもラベンダー色だった。気付いて欲しかった訳じゃない。今更どうこうできることでもない。ただ、私がいつまでも執着して、しがみついて、離れられなかった。あの時の言葉を鵜呑みにして、私のクローゼットには今も、ラベンダー色の服がたくさん詰まっている。
 今日も、そうだった。他の服なんて持ってないのではないのかと言うほど、この色を基調にしたコーディネートしかできない。
 そんなことにまで拘っている私を、なぜ菅原さんは選んだのだろう。何もかも上手く説明できなくて、途切れ途切れに話す私を、菅原さんはじっと見つめていた。時々相槌を打って、泣きそうになれば背中をさすって。

さん、どうぞ」

 影山くんとのこと、どうやって別れたか、別れた後どうしていたか、結婚式に出た時の私の本当の気持ち、菅原さんに申し訳なくて仕方ないこと―――一頻り話し終えると、菅原さんは温かいお茶を出してくれた。
 影山くんが綺麗でよく通ると褒めてくれた声でさえ、泣きじゃくったせいでこのざまだ。嗚咽が止まらなくて、涙が溢れて止まない。この数年間、我慢していたものが一気に溢れ出して来るようだった。

「…少なくともさ、俺はさんのこと迷惑だとは思ってないから」
「だって、私、こんなに面倒臭い…っ」
さんこそ迷惑?」
「まさか…!」

 思いもよらぬ言葉に顔を上げれば、菅原さんは微笑んでいた。馬鹿にするでもなく、軽蔑するでもなく、私を見て優しい眼をしていたのだ。なんで、と自然と私の口から言葉が漏れる。

「俺は、さんが泣けばいいって思ってた」
「え……?」
「あの日は酒に酔って泣いてただろ。そうじゃなくて、ちゃんと泣いて吐き出してしまえば良いって思ってた」
「…だから、なんで……」

 私に巻き込まれただけの人が、なんでそこまで言ってくれるのだろう。まるで私が何を言っても、全てを受け止めてくれるような言い方に、私は錯覚する。この優しさが本物なのではないかと。私たちは契約のような形で付き合っているだけで、そこまでする義理はないはず。そんな所まで気を遣う必要もないはず。深く深くに踏み込むことなんてしなくても、上辺だけでいいのに。
 そう思いながら、引き返せない所まで私が吐き出してしまったことにも、今更になって気付いた。最初から全て、私が巻き込んでしまったのだ。

「泣けばいいよ、さん」
「わたし…」
「数年分はそんなもんじゃないだろ」
「わたしは……」
「ほら、いいから」

 そう言うと、強引に私を引き寄せる。俺は何も見てないよ、と私の耳元で囁く声。それはまるで悪魔の誘いだ。菅原さんのことで泣いている訳じゃないのに、菅原さんは無関係なのに、それでもいいと言う。泣けばいいと言う。誰にも言えなかった、誰にも見せられなかった涙を、全てここで流し切ってしまえば良いと。
 その優しさが、酷く痛かった。記憶にない腕なのに、記憶にない温度なのに、最後に影山くんに抱き締められた時のことを私は思い出していた。あの時も痛かった。あの時の私たちにはさよならの選択肢しかなくて、理解はしても納得なんてできなかった。胸が痛くて痛くて仕方がない―――あんな感覚はもう二度とごめんだと思っていたのに、今また同じ思いをしている。菅原さんの腕の中にいながら、感じるのはあの時と同じ痛みだ。
 終わらせることのできなかった恋が胸の奥で燻ぶる。残り火が心臓を燃やしているようだ。ああ、だから痛いのか、と頭の片隅で考える。それなら、この涙が過ぎた恋を炭になるまで消してくれればいいのにと願った。



***



 俺の部屋に来ることに、さんは躊躇いを示さなかった。危機感がないのか、信用してくれているのか、気が動転しているのか―――どう考えても最後のものだろうが、相手が悪かったらこんな弱い所を見せられて付け込まれるぞ、と思った。もちろん俺は疚しい気持ちがあって家に来るかと提案した訳ではない。外で話せるような内容であろうことは容易に想像できたし、いつかは話してくれるだろうと思っていたことだ。ただ、それが思いの外早くて俺も驚きはした。それはつまり、それほどまでに彼女がいっぱいいっぱいだったということだろう。
 泣けばいい、と言ったのは彼女にとっては残酷だったかも知れない。辛いことばかり思い出させてばかりだ。けれど、それでもさんのことを考える度に思う。全部全部吐き出して、一度空っぽになってしまえばいいと。そこに他の誰か、さんを大切にしてくれる誰かを新しく当てはめればいいのだと。

(あわよくば、か……)

 腕の中のさんは泣きやむ気配はなくて、どう転んでも間違いを犯す気にはなれなかった。
 俺はさんほど一途に思った相手はいないし、ましてや相手を追って進路を決めることなんて考えられなかった。確かにこの歳になれば結婚を考えた相手がいなかった訳でもない。けれど、結果結婚に行きつかなかったから今も“こう”なわけで、それはさんとあまりにも事情が違う。
 旭は昨年結婚した。今年は影山で、大地は来年だと言う。後輩たちもそれぞれ、それらしい相手がいることをにおわせる中、俺にはそんな気配はなかったが、さんと一緒にしてはいけない。それを分かっている上で、さんに泣き場所を与えるなんて言い訳までして丁度いい相手を見付けようとしていたのかも知れない、俺も。俺が優しいなんて、とんでもない嘘だ。さんが思っているほど俺はお人好しではない。あわよあくば、という気持ちがなければこんなことはしていない。付き合うなんてこと、提案しないのだ。
 少し落ち着いてから、さんがぽつりとこぼした。

「菅原さんの優しさが、痛いです」

 そりゃそうだろうな、優しさなんかではないのだから。泣いて泣いて、吐き出して吐き出して、影山のことを吹っ切らせることは、果たして優しさと言えるのだろうか。俺の自己満足ではないのだろうか。けれど、俺を縋るように仕向けてしまった今、最早そんなことを言えるはずがない。
 いつの間にか背中に回された彼女の手は、思ったよりも温かかった。





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(2015/12/12)