「菅原先輩!今日なんですけど!」
「あー…ごめん、俺しばらくそういうの無理になったんだわ」

 さんと付き合い始めて初めて、後輩から飲み会に誘われた。ようやく彼女を口説き落とすために使った口実を使う時が来たようだ。いつもは仕方なく引き受ける俺が断るのを不審に思ったのだろう、訝しげに首を傾げる後輩。

「何でっスか!相手薬剤師ですよ薬剤師!」
「そんな大層な資格持ちが俺らみたいなの相手にするかー?それに俺、無理って言ったんだからな」

 そこでようやくはっとした後輩は一歩後ずさった。まさか、と言って青ざめる。恐らく想像通りだろう。俺の頭の中もさんの姿が頭を掠めた。
 先日からお付き合いしているさんとは、メールを少々、電話を少々、週末に少し会う程度で、休日まるっと一日過ごしたことはまだない。今日もまた、夕飯でも一緒にどうか、と誘った所だった。まだ彼女から返事はないが、まず断られることはないので多分合う方向になるのだろうとは思っている。そこへタイムリーにも後輩からの誘いが来た訳だ。
 いつの間に、と震える声で呟く後輩に失礼な奴だと思いながらも、この間友人の結婚式で、と素直に答える。

「俺も結婚式に招待されたいっス…」
「やましい出会い目的じゃとうぶんはないな」

 笑ってやると、悔しそうに泣くふりをして自分のデスクへ戻って行った。ちょうどその時、さんから返事のメールが届く。大丈夫です、という簡素な一言の後ろに笑った顔の絵文字がつけられている。
 さんはいい子だ。彼女の泣き場所を作ってやるつもりが、逆に俺が話を聞いてもらう立場になっていたり、それでも嫌な顔一つせずうんうんと頷く。逆に、彼女から仕事の弱音や愚痴でさえ聞いたことがない。何をやっているんだ、これでは本末転倒ではないか。
 忘れさせてやれるものなら忘れさせてやりたい、と思わなかったことはない。影山のことを綺麗に思い出にして、次に進めてやりたい、と。別にそれは俺でなくてもいいのだ。報われない恋をして追いかけ続けることほど不毛で辛いことはない。

(それでもいいって、笑うんだろうなあ…)

 それは“今はまだ”、なのか、“これからもずっと”なのか。まだ付き合いを始めてさほど経っていない俺には計りかねるが。いつも別れ際に見せる少し寂しそうな笑顔が、なぜかふと浮かんだ。



*



 恋愛相談、というものに困っていた。される方ではない、する方だ。今の会社の同僚で私の恋愛事情を知る人はおらず、身近でずっと話を聞いてもらっていたのは谷地先輩だけだ。影山くんと付き合い始めた時も、付き合ってる最中も、別れた時も、別れた後も、話を聞いてくれていたのは谷地先輩だけ。
 だからと言って、状況の変わった今、また谷地先輩を頼っていいものか。この間、菅原さんの連絡先を聞くにあたっては尤もな言い訳を用意できたが、それ以降の進展について話す義務もないし、相談、と言っても何をどう相談していいものか私自身分からない。

(ただ聞いて欲しいだけなのかもだけど…)

 菅原さんから来た「今晩夕飯食いに行く?」というメールへの返事を考えながら、私はそんなことを思っていた。
 菅原さんはいい人だ。いくらビジネスライクとは言え、こんなつまらない女を相手に選んで、まめに電話をして、メールをして、ご飯に誘ってくれたりして。私何かといて楽しいのだろうか。
 私はとても口下手で、いつも聞き手に回る方だから面白い話の一つもできない。本当は溜まっている仕事の愚痴を言える相手でもない。プライベートな弱音を吐いてもいいものかと悩む。結果、菅原さんに振れる話題がないのだ。共通の趣味でもあれば別なのだろうが、そう言えばそういう話をしたことがない。

(だからと言って唐突にそういうことを聞いてもいいものだっけ…)

 大丈夫です、という返事のメールを送り、携帯をポケットに突っ込む。すると、数秒の内に再び携帯が震える。こんな早くに返事が来るはずがない。再び携帯を開くと、願ってもない、谷地先輩からのメールだった。

 ―――ちゃんこんにちは、谷地です!菅原先輩とは無事に連絡取れた?菅原先輩は優しいし、怒ってないとは思うんだけど…何かあったらいつでも言ってね!

 何か、に心当たりがあり過ぎる。縋りたい気持ちでいっぱいだった。全部言ってしまいたい。あの日―――影山くんの結婚式の日、実は一晩菅原さんと同じ部屋で過ごしたことは言えていないし、会ってお茶したことも、付き合うことになったことも言っていない。菅原さんが私を知っている誰かに言うとも思えないし、誰も知らない、私と菅原さんだけしか知らないのだ。
 携帯を片手に悩む。打ち明けてしまおうか。言ってしまえば楽になるだろうか、すっきりするだろうか。もやもやとするこの気持ちの悪い感じは、隠れてこそこそしているからだろうか―――いや、隠すつもりもこそこそするつもりもなかったが。
 携帯画面、メールの新規作成ボタンを押す。宛先は谷地先輩。言ってしまって良いだろうか。菅原さんは誰にも知られたくないだろうか。そうだ、これは私一人の問題ではない。谷地さんは菅原さんとも先輩後輩の仲で、あの二人も連絡先くらい知っているかも知れない。そう思うと、迂闊に告白することは憚られる。谷地先輩を疑う訳ではないが、もし、ということがあれば。

(……菅原さんに聞こう)

 丁度、今晩会う約束もした。その時に聞こう。そう決意して、今度こそ携帯にポケットをしまった。そして仕事に戻る。デスクに残っている仕事はあと少し。時計を見れば、退勤まであと三十分。このデータをコピーして、提出して、そして終わりだ。いつもの駅へ行って、菅原さんを待つ。菅原さんはきっと一言目に「待たせてごめん」と言う。今来た所です、と私は返す。およそ一時間後の光景が、こんなにも簡単に想像できる。
 ここの所はこんな調子だ。いい意味でか、悪い意味でか、菅原さんのことばかり考えてしまう。そうしている間に仕事は終わるのだ。大きなミスをする訳でもないし、注意されるような事案もない。それなのに気分だけが晴れない。菅原さんと会うのが嫌な訳ではないのに。

「どうしたのさん、仕事終わりだよ。早く帰っちゃお」
「えっ?あ、はい…」

 ほら、また。気付けば仕事が終わっている。もうあれから三十分経っていたらしい。先輩の言葉にはっとして、パソコンの電源を落とす。ロッカーに向かい、簡単にメイクを直して職場を後にする。
 花の金曜日、擦れ違う人々の顔は心なしか明るく見える。電車に揺られてたった二駅、いつも通りの改札を出ると、今日は私より先に菅原さんが先に到着していた。余裕だろうと思ってのんびり改札を抜けた私は、その姿を見付けて慌てて駆け寄って行った。

「す…っ、すみません、菅原さん!」
「わ…っと、さん?」
「お待たせしたようで…!」
「や、俺も今来たとこ。いつもさんを待たせてるの俺の方だし」
「……いや、それは……」
「とりあえず行こっか」

 そう言って、菅原さんは私の少しだけ前を歩く。殆ど隣だけど、ほんの少しだけ前だ。手は、付き合おうと言われた日以来繋いでいない。今日も出て来る話は菅原さんの仕事の話で、私は相槌を打つばかり。今日は特に、緊張していた。どう話を切り出そう、何をどう説明しよう、そればかりが頭の中をぐるぐると回っている。聞かなきゃ、菅原さんの話を聞かなきゃ、と思っても、心ここにあらずになってしまう。その自覚はあった。だからだろうか。

「…今日、やめとく?」
「え…?」
さん、調子悪そうだし」
「そ…んなことはないです」
「はい嘘ー。家まで送るよ」
「ち、ちが…」
「俺の誘いくらいさ、律儀に毎回了承しなくていいから」
「ち……違うんです!」
「…さん?」

 無理矢理家まで送られそうになった所を、腕を引っ張って引き留める。調子なんて悪くない。菅原さんと会うのが嫌な訳でもない。菅原さんが嫌な訳でもない。ただ、上手く言えないのだ。

「そうじゃ…なくて…」
「うん」
「私、ちゃんと菅原さんと、話がしたくて…ちゃんと…」
「…じゃあさ」

 菅原さんの腕を掴んだ私の腕に、そっと手を重ねる。

「家で話す?」

 その提案に、私はゆっくりと頷いた。分かった、と言うと、私たちはもう一度来た道を戻る。さっきまでとは違って無言で、今度は私はずっと菅原さんの背中を見つめながら歩いた。





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(2015/12/10)