影山くんの結婚式の翌朝、目を覚ますと私は知らない部屋にいた。見覚えのない天井、慣れないベッド、動きにくい衣服。随分と瞼がはれぼったく、目が開けにくい。まだ半覚醒の頭でみじろぎすると、誰かの腕の中だということに気付く。そこでようやくしっかりと覚醒したは飛び起きた。

「ふ、ふく…っ!」

 大丈夫だ、服は着ている。メイクも落としていないらしく顔はどろどろであり、結婚式のために自分でセットして行った髪は見る影もなくぐしゃぐしゃだ。そして、

(声がとんでもない…)

 これが酒焼けというのか二日酔いというのか、喉は痛いわ目は回るわ、起き抜けから散々だ。…いや、散々なのは影山くんの結婚式の招待状が届いてからずっとだった。影山くんが結婚する、という噂はどこからか聞いていた。なんだかんだ、バレー部マネージャー時代からの繋がりが今も続いており、その関係で聞いたのだったと思う。
 招待状が届いた時、地獄のどん底にでも落とされた気分だった。あの頃の恋を引き摺っていたのは私だけで、影山くんはちゃんと進んでいて、私だけが未練がましく初めての恋にしがみついていた。
 惨めだと思ったのだ。影山くんのせいじゃない、忘れることができなかった私のせいなのだ。新しい恋をしなさいと、何度もいろんな人に言われた。けれど、誰かを紹介される度に、何もかも影山くんと比べてしまい、結局恋には進展しなかったのだ。

「今日もみじめ…」

 ガラガラの声で呟き、そこでようやく隣で眠っている“誰か”を覗き見る。男性だ、それは間違いない。目が覚めた瞬間からそれは分かっていた。見覚えはあるような、ないような。昨日は自分でも訳が分からないくらいお酒を飲んだせいで記憶がほとんどない。相手も自分も服を着ているし、一夜の過ちがあったとは思えないが、どういう経緯でこの男性と寝ていたと言うのか。そもそも、そうだ、誰だ。

「す、すみません……」

 控え目に声をかけて、軽く肩を叩く。色素の薄い髪に、開かれた目は丸い。その事実に、落胆している自分がいた。ああ、また比べてしまった、と。
 起きた男性はまずのびをすると、「大丈夫?」と声をかけて来た。数回頷くが、途端に彼は笑い出した。訳が分からずぽかんとしていると、むせるほど笑った彼は、「すごい顔」などと言う。
 そうだ、メイクを落としていない。昨日のまま寝ているし、髪もきっととんでもない。予想はつくが、そんなに笑うことはないだろう。ひとまず挨拶も自己紹介もそこそこに、私は洗面所に飛び込んだ。鏡を見ると確かにとんでもない顔をしている。髪は絡まり鳥の巣のようになっており、顔面にはアイシャドウのラメが飛び散っていた。ファンデーションは全て落ちたも同然だ。そして何より、目元がいつもの私のものとは思えなかった。これは笑われても仕方がない。
 アメニティを使って洗顔すると、少しだけ寝ぼけていた頭がさっぱりした。気持ちだけはまだどうもすっきりはしないけれど。

「…ご迷惑をおかけしました」

 顔と髪を整えて洗面所から出て来ると、まず名前も知らない彼に謝罪をした。恐らく歳は上だろう。記憶がないのは三次会以降なものだから、きっと烏野のバレー部関係者のはず。ということは、影山くんの先輩辺りだろうか。全く面識もないというのに、一晩付き合わせた申し訳なさから顔が上げられない。

さん、だっけ」
「…はい」
「俺は菅原孝支。烏野のバレー部で影山の先輩してたんだ。心配しなくて良いよ、別に何もなかったから…って、見たら分かるか」
「で…でも……」
さんが手を離してくれなかったから同じベッドで寝るしかなかっただけだし、今日は俺も仕事休みだしね」
「…すみません」

 後悔ばかり渦巻く私に気を遣ってか、優しく諭すように昨晩のことを説明してくれる。けれど、あの飲み屋から運んでくれたのも、ホテルの手続きをしてくれたのも彼だろう。飲んだくれの汚い女をここまで運んで来るのは相当な労力が必要だっただろう。せめて、ホテル代は全額出さなければ。
 昨日のこと、昨日のこと、と色々思い出していると、また泣きそうになった。じわりと涙腺が緩む。ここは私が泣く所ではない。昨日も散々迷惑をかけておいて、この上また迷惑をかけるつもりか、。事情もよく知らないであろう彼の前で泣く訳にはいかない。いかないのに。

さん、ちょっとおいで」
「……」
「いいから、ほら」

 手招きをされて、重い足で彼の腰掛けるベッドに近付く。すると、軽く腕を引かれて彼の胸の中で飛び込む形になった。その勢いで、二人してベッドに倒れ込む。安っぽいスプリングの軋む音がした。

「事情は大体聞いてる」
「影山くんのこと、ですか」
「うん」
「馬鹿みたいでしょう」
「うん」
「もうあれから何年も経ってるんです」
「うん」
「馬鹿みたい…」
さんが言いたいのはさ、そう言うことじゃないよね」

 くるりと体勢を変えて横向きになると、顔を見合わせて菅原さんはそう言った。怒るわけでも責めるわけでもない。なお、諭すように言う。そして、まるで涙を促すみたいに親指の腹で私の目元に触れた。優しく擦るその手の感覚に覚えはなく、初めての手のひらに私は戸惑うしかない。
 私の知らない手、私の知らない指、私の知らない温度。全部全部、私の記憶の中にはないものだ。当たり前だ、目の前にいるのは影山くんではないのだから。影山くんの先輩とは言え、まるで似ている所なんてない。他人なんだよ、関係ないんだよ、と自分に言い聞かせる。けれどその度に、罪悪感のようなものがずっと私を襲っていた。
 嫌いで別れた訳ではなかった人。仕方なく別れた人。止むを得ない事情で以て別れた人。それなら、心はずっと変わらないままだと信じていた十代の私。私だけじゃなく、影山くんも変わらないものだと信じていたあの頃の私。そんなことあるはずがないのだ、人の心なんて。それなのにまだ、影山くん以外の誰かに触れられることに後ろめたさを感じている。私はどこまで愚かなのだろう。

さんは馬鹿だよ」
「は……」
「そんなに泣くなら結婚式なんて欠席すれば良かったんだ」
「そう、ですね…」
「まだ泣き足りない?」
「そんなこと、」
「泣いていいよ。チェックアウトまでまだ時間あるから」

 見てないから、と言って私の頭を抱き寄せる。
 欲しかったのは、その言葉だったのだろうか。あれだけ泣いたというのに、未だ涙は枯れない。菅原さんの言葉に甘えるがまま、縋るように声を上げて私は泣いた。



***



 とはそれきりだった。一晩面倒を見て、翌朝彼女が泣きやむまで付き合って、特に連絡先を聞くことも聞かれることもなく、ビジネスホテルを出た所で分かれた。宿泊代はさんが出すと、頑として譲らなかったので年下だが甘えることにした。無駄なお金を使わずに済んだな、なんて思いながら、頭の半分には「これで終わりか」なんて思う自分もいた。
 ただのOBとOGだ。共通の知り合いの結婚式で偶然出会っただけの。友人の結婚式を格好の出会いの場にする奴もいるが、俺は最初からそんなつもりなどなかった。最初にさんを押しつけられた時も面倒臭いとしか思えなかった。自分の限界を超えて酒を飲み続けるわ、泣き続けるわ、寝るわ、重いわ―――けれど、ホテルについて、ソファで寝ようとした時に引っ張られた腕。その手に触れて気付いてしまった。彼女は寂しくて仕方ないのだと。
 影山以外の誰も好きになったことがない彼女。影山以外との恋を知らない彼女。俺も人のことは言えないが、三つ年下と言えば彼氏くらいいてもいいもの。それが、高校時代の初恋しか知らず、そんな彼女が無防備に自分の前で寝ている。変な気を起こしかけなかった、とは言い切れない。でもあれだけ寝ながらも泣かれ続ければ、そんな気はなくなってしまった。

(清水なら……)

 マネージャーの先輩である清水なら、谷地さん経由で彼女の連絡先を知ることはできないだろうか。連絡先を手に入れる口実ならいくらでも作れる。あの日ていよく押しつけられたのだ、その後が心配だから、とでも言えばどうとでもなるだろう。
 初恋を引き摺っている人間なんて、面倒臭いことだらけだ。高校生の時のまま、傷口は開きっぱなしなのだから。別にそこにつけ入ろうとしている訳ではない。彼女にはあの涙を止めてくれる相手はいないのだ。もしいたとしたら、昨晩のようなことにはならない。じゃあ、いつまで彼女は泣き続けるのだろう。癒えない傷を抱えて生きて行くのだろう。ずっと影山の後姿だけを追いかけて生きて行くつもりなのだろうか。もう二度と振り向いてもらえるはずのない相手だと言うのに。
 もし、あの涙を止めることができたなら。それが自分だったら。

「…もしもし清水?影山の結婚式の時の、そう、さんのことなんだけどさ―――……」





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(2015/12/03)