出来ることなら、後悔なんてせずに生きて行きたいと思うのは誰でも同じだと思う。けれど、このたった一年、365日でさえ、思い残すことは山のようにあって、きっとこんな風に生きて行って、いつか終わるものなのだろうかと思う。普段はそんな感傷的な事は考えやしないのに、つい悲観的な考えが浮かんでしまうのは一年の終わりも近いからだろうか。すれ違う人の足は皆一様に速く、肩がぶつかり謝る姿もどこか忙しない。
 部活の練習収めだった今日は、何かどっと疲れた。それぞれ自宅で年末を過ごすのだと浮かれながら帰って行ったが、生憎自分には一緒に年越しをする家族は今はいない。一人暮らしの大きなマンションに戻り、いつものように夕飯を作って風呂に入って寝る、それだけだ。未だ年末という実感も湧かないまま、マンションのエレベーターを降りると、自分の部屋の前には見知らぬ女性が立っていた。二十代も半ば頃だろうか。思いつめた表情の女性に心当たりは全くない。

「俺の部屋に何か用か…です、か?」
「…え?」
「いや、だからそこ俺の部屋…」
「…………」

 声をかけるとぱっと振り返った女性は、目を大きく見開いてこちらを見た。驚いているのは俺の方だ、と言いたくなる。やがて、何かを言いたげに唇を震わせた後、こちらに駆け寄って「私が見えるの!?」と言い出した。
年末というのはなぜこうもおかしな輩が多いのか。声をかけるのではなかったと、年末にまた一つ後悔を生み出して俺は溜め息をついた。
 とりあえず、その変な女に玄関前で事情を聞くと、どうやら数年前に死んだ女の幽霊らしかった。大きな心残りがあり死後数年、この辺りを彷徨っていたらしいが、俄かに信じがたい話に終始顔をしかめていた。大体証拠がないだろ、と言うと、「私、何にも触れないわよ」と言ってにやりと笑う。女は勢いよく腕を振り被ったかと思えば、俺に向かって思い切り振りおろす。当然、思わず目を瞑る―――が、想像した衝撃は待てども来ない。そっと目を開けると、女の手は俺の顔を通過していた。触れられた感覚はなく、しっかり色はついているはずのその手は、顔のど真ん中を突っ切って左右を行き来する。

「マジで死んでんのか…?」
「もう七年くらい前になるのかな。信じてくれた?」
「お、おう…。だがよ、その心残りってなんなんだ?」

 当然のように聞くと、女は黙り込んでしまった。幽霊とはいえ、無神経な事を聞いてしまっただろうか。すまない、と言おうとして、彼女の方から先に口を開いた。ぽつりと、小さな声で「昔の恋人を探している」と。途端、重い空気になってしまい、まずいことをしてしまったと悟る。このまま立ち話ではいそうですかと終わらせる訳にも行かなくなってしまい、

「とりあえず、部屋入れよ」

 そう言ってしまっていた。



***



 彼女は、と名乗った。この七年間は元恋人を探していたらしく、生前はこのマンションに住んでいたそうだ。多分この辺りの部屋だったんだけど、と話す彼女―――さんに内心冷や汗をかいた。このマンション界隈に本物の幽霊が徘徊していただなんて、冷静に考えるとぞっとする話である。
 けれど、ゆっくりと話を聞くと彼女も不憫なものだった。彼女が死んだのは、恋人との入籍が間近に迫った時期だったのだという。まさに幸せの絶頂にいた時に、彼女は突然死んだ。死因や理由は一切彼女の口から出ないところをみると、きっと話したくないのだろう。無理に聞こうとはせず、ただ彼女に話される過去を俺は聞いていた。

「ずっと探してはいるんだけど、彼、私が死んだ後すぐに引っ越してしまったみたい。段々私の記憶も薄れてきちゃって、今では顔もぼんやりとしか思い出せないの」
「他に何か、手がかりになることはないのか?乗ってた車とか、働いてた場所とか」
「うーん…」
「よく行った場所とか」

 色々と質問をぶつけてみるが、どうやら生前の記憶が薄れているというのは本当らしく、どれもすぐには返事が返って来ない。未練があると言うのに、その未練の原因が思い出せないとなると、元恋人を探しだすのはどんどん困難となる。
 しかしさんの話に付き合いたいのは山々だが、部活帰りで腹も鳴る。沈黙の中、空腹を知らせる虫が鳴けば、さんは口を押さえて一瞬笑いを堪えた後、目に涙を浮かべて笑い出した。

「あっははは!今のタイミング最高ね!」
「そ…っ、そこまで笑うことねーだろ!」
「いやー、面白いね、今時の高校生面白いよ!」
「馬鹿にしてんだろアンタ!」
「いやいやいや、ほら、お腹空いてんでしょ。ご飯作って食べて良いよ。何か思い出せないか私も考えておくし」

 キッチンを指差してまだ笑うさん。多分、触れたとしたら背中をぐいぐい押されたんだろうな、ということを考えると、何か切ない感じがした。
 幽霊と言えばもっと恨みがましくて怖くておぞましいものを想像していたが、さんはまるで違う。生きている人間とまるで同じではないか。落ち込んで見せたり、からからと笑ったり、表情のころころ変わる彼女はクラスの女子たちと変わらないようにも見える。
 生きていたら今頃、その恋人と幸せな家庭を築いていたかも知れない。恋人は夫となり、もしかすると子どももいたのかも知れない。かも知れない、を考え出せばきりがないことは分かっている。けれど、目の前であんな風に悩んだり笑ったりするさんを見ると、彼女のあるはずだった未来をいろいろと想像してしまう。
ついさっき会ったばかりなのに、悲しい気持ちが共鳴してしまうのは、さっきまで自分も後悔について考えていたからだろうか。

「わ、すごいね!火神くんってば主夫?」
「うわっ!いきなり現れんな!」
「私より料理上手とか許せないなあ…」
「料理できたのか?」
「失礼だなあ、これでも結婚を前にしてた二十代の女性だったのよ?」
「そういえば、そうか」

 さんの語る言葉の全てが過去形で、それに気付いてしまうと胸が痛む。きっと彼女は本当に料理上手だったのだろうし、結婚生活に夢も見ていたのだろう。
 考え込んでしまった俺に気を遣ってか、「冷める前に食べちゃいなよ」と声をかけて来るさん。おちゃらけて見えるが、この七年間どういう気持ちで過ごして来たのかを考えると、どうもやりきれない。俺が味のしない夕飯を食べていると、彼女は元気付けるかのように「一つ思い出したの」と身を乗り出して言った。

(逆だろ、フツー)

 無理して笑っているように見えるさんに、俺は情けない気持ちでいっぱいになった。
 なんとかして、彼女の願いを叶えてやりたい。元恋人を見つけてやりたい。未練なんて、後悔なんてなくちゃんと天国に行けるように手伝ってやりたい。目の前で生きているかのように笑うこの人が、ちゃんと笑って人生を終えられるように。

さんは、その恋人に会って何がしたんだ?」
「んー…」

 問い掛けると、頬杖をついて遠くを見るように目を細めた。その向こうには、かつての恋人の姿を思う浮かべているのだろうか。

「彼が今、ちゃんと幸せな所を見届けたい、かな」

 言ってすぐに、「危なっかしい人だから心配だったのよ」と照れ隠しのように笑う。そこに至るまで、どれだけ悲しい思いをしたのかは知れない。そうやって笑えるようになるまで、この七年の内どれだけの時間を費やしたのかは知れない。
 ただ、年上の彼女に対してこう思うのは失礼かも知れないが、ひたすら健気な人だと思った。そして、一緒に幸せになりたかったであろう人の幸せを望むその横顔は、とても綺麗だった。








(2013/12/30)