元恋人に出会えずこの世を彷徨っていた幽霊が、過去を清算することに付き合うことになった。いや、付き合わされた訳ではなく俺が付き合うことにしたのだが。 俺と話す内に思い出したと言う手がかりを元に、一年の最後の日にも拘らず、俺はと名乗る幽霊の女性と一緒に宛てもなく街を歩いていた。当然、俺以外にさんは見えず、避けきれなかった人はさんの身体をすり抜けて行く。未だ奇妙なその光景に密かに眉根を寄せた。 既に手がかりの二つ三つの場所は行ってみたが、そこへ行っても何のヒントも得られなかった。さんの元職場や、さんの元恋人の当時の職場。二人がよく行ったというレストランは、残念ながら潰れてしまっていた。 「タイムマシンで遠い世界にでも来ちゃったみたい」 「さん?」 「街並みが変わって、風景が変わって、二人でよく行ったお店はなくなっていて、代わりに違うお店ができていたりして…。元より、私なんてもう時間が止まっちゃった存在だけどね」 自嘲気味に零す彼女を見ていられなくて目を逸らした。 諦められるなら諦めたかっただろう。大切なはずの思い出がどんどん記憶から遠ざかり、恋人の顔すら薄らいで行く。自分の生きていた時間は本当にあったのかと、それすら分からなくなる。それならいっそ、手掛かりもなしに元恋人を探すなんて不毛なことを繰り返さず、諦めてしまえればよかったのだろう。 けれどどうしてか、人と言うのは未練にしがみついて生きてしまうものらしい。今年、負けて悔しい思いをした試合を思い出し、ぎり、と奥歯を噛んだ。 それでも自分にはまだ次がある。同じ大会は、同じ試合は二度とないが、リベンジの機会はないとは言い切れない。だが彼女は違う。もうどうあがいても生き返ることなどできない。今、再び恋人に出会えたとして、その恋人がさんを認識できるかどうかも分からないのだ。さんはそれも分かった上で、恋人を探しているのだろう。 「次、行くぞ」 「え?」 「まさか思い出したことそんだけじゃねーだろうな」 「あ、う、うん、違うけど…いいの?」 「そのために寒い中出て来たんだからな」 すると、さんは嬉しそうに笑ってまたとことこと俺の後ろをついて来る。本当だったらこんな風に笑っているさんの隣には、結婚するはずだった恋人がいたんだろうと思うと、またやりきれない気持ちになった。 *** 朝からあちこち歩き回ったが、さんがぴんと来るようなことはなかったし、元恋人にも出会わなかった。七年も経てば相手も引っ越しているかも知れず、東京にいるかどうかすら分からない。それでも、出来る限りさんの言う場所へと足を運んだ。 一つ、また一つと「いない」と言って振り切る度に、さんの声に元気がなくなって行く。けれどそれとは逆に表情は少しずつすっきりして行って、こうして思い出の場所を全て巡ることができたら、もしかしたら全てに別れを告げてさんは楽になることができるのだろうかとも思う。さんも、行く場所全ての景色を目に焼き付けるかのように、黙ってじっと見つめた。 そしてとうとう日も暮れ、彼女の思い出した最後の場所に行くことになった。 「大きな観覧車のある公園?」 「私がプロポーズされた場所なの」 婚約指輪がはめられていたのであろう左手の薬指を、さんははにかみながら撫でた。多分、さんが生きていた中で一番幸せな瞬間だっただろう。 ここまできて、そんな大事な場所に同行していいものか迷う。この辺りで大きな観覧車のある公園といえば一つしかない。場所を教えれば彼女一人で行けるのではないか。過去を清算する儀式のような場に、昨日出会ったばかりの赤の他人である俺が立ち入っていいのだろうか。 何も言わない俺の心情を察したのか、さんは明るく笑って言った。 「一緒に行ってよ、火神くん」 「…いいのか?」 「昨日今日と無理言って付き合わせたんだもの。最後まで見届けて欲しいな」 そう言われたら、行くしかない。俺たちは、今度は公園に向かって歩き出した。 そこからはいろんな話をした。さんが恋人と出会った時のことや、交際することになったきっかけ、初めてデートで行った場所のことなど。話し始めれば記憶は掘り起こされるようで、まるでマシンガンのようにさんの話は止まらなかった。 傍から見れば俺は大層不審な人物だろう。けれど幸い、大晦日で誰もが人に構っている暇などなく、俺一人が何かをぶつぶつ言っていた所で見向きもせずに足早に通り過ぎて行くだけ。それはまるで、俺とさんだけが存在している世界のようだった。彼女もいつも誰にも気付かれることなくこの七年間彷徨っていて、死後会話した人間は俺が初めてなのだという。俺にいろんなことを話してくれるさんは生き生きしていて、幽霊だなんてこと全く思えなくて、まるで生きてそこにいるかのような錯覚にさえ陥る。 けれど、彼女に触れられないと言うたった一つの事実だけが、さんはもうこの世にいない人なんだという現実を突きつけていた。だからさんも間違ってでも俺に触らないように、俺もさんにふとした拍子に触ってしまわないように、一定の距離を保って歩く。 「あ!あれ!あの観覧車!」 「思ったよりデケーのな」 「よかった…なくなってなくて…」 「乗るか?」 「いっ、いいよ!火神くんが恥ずかしいじゃん!」 「いやまあ…そうだけど…」 「近くで見るだけでいいの!ほら、もっとあっち行こうよ」 観覧車を指差しながら俺の前を走り出す。 さんが死んだのは二十五、六歳の時だと言っていたが、あのはしゃぎようは高校生とそう変わらない。そんなさんを見ていると、俺がああだこうだ考えるのは野暮なことなのだと思えて来る。彼女が笑っているなら、俺も笑っていればいいんじゃないかと。俺が色んな事を勘繰った所で、さんはきっとそれを認めない。「心配なんてしなくていいのよ」と笑うだけだ。 二人で笑いながら観覧車のすぐ下まで走る。すると、昨日感傷的になってしまっていたことが馬鹿みたいに思えて来た。あんな風に悩むだなんて、全く自分らしくなかったのだ。さんと大笑いをすれば、全部がリセットされるような気がした。 「あははっ!こんなに走ったの久し振り!気持ちいーい!」 「俺もスッゲー楽しい!」 観覧車のふもとで息を整えていると、周りの人たちが不思議そうにこちらを見て行く。それでも気にせず、俺はさんと会話を続けた。 「…彼にね、観覧車の中で指輪を渡されたの」 「ははっ、まるでドラマじゃん」 「私がそういうの好きで、らしくもないのにそんな演出してくれちゃったのよ」 「優しい人だったんだな」 「うん、そう。優しい人だった」 ぐっと観覧車を見上げれば、そのイルミネーションに照らされるさんの横顔。彼女が思い出を浮かべている時のその横顔は、夜に溶けて消えてしまいそうだ。瞬きの度に震える睫毛の淵から、今にも涙が零れ落ちそうだ。 しばらく様々な色に変わる観覧車を見上げた後、さんは目元をごしごしと擦って、また笑って見せた。けれどすぐに、その表情は固まる。俺を見て、いや違う、俺の後ろを見て固まった。まさか、と思って振り返る。そこには小さい子どもを連れた一組の家族がいた。 この人が、そうだというのだろうか。 「さん、」 「その人…その人よ、間違いない、ねえお願い火神くん、私、その人と話がしたい、お願い、火神くん!」 さんは急にぼろぼろと大粒の涙を零して訴えて来た。 まさかこんな所で最後に遭遇するとは思わず、俺も動揺した。けれど、これを逃したらもう二度と会えないかも知れない。それにこれがきっとさんの最初で最後の願いだ。 「す…すみません!」 「はい?」 男 性の肩を掴んで呼び掛けると、彼は嫌そうな顔をすることもなく振り返ってくれた。同時に、奥さんらしき女性と子どもも一緒に振り返る。俺の後ろでは、さんがぎゅっと手を握りしめてこちらを見ていた。 不審がられることを覚悟で、俺は話しかけた。 「あの…ある人からのお願いで、探してました」 「僕を?」 「今、あんたが幸せかどうか、心配してる人です」 「幸せ…?…もしかして、いや、まさか…」 か―――男は、聞こえないほどの小さい声で呟いた。その瞬間、後ろから嗚咽が漏れ始める。 七年の時が経ち、彼が新しい人生を歩み始めていたことは、隣につれている嫁と子どもを見れば分かった。きっとこの光景は、さんも予想していたことかも知れない。そして、望んでいながら、そうでなければいいと願った光景かも知れない。 言葉を交わすことができないさんの代わりに、俺は彼女が言いたいであろう言葉を必死に探す。恨みでも何でもない、たった一つ、そのためにさんがこの世を離れられないこと。どう聞けばいいのか分からず、何度か言葉を躊躇った後に聞いた。「今、ちゃんと幸せか?」と。 「幸せだよ」 二人の家族を見て、朗らかに笑う。さんは、ひたすら俺の後ろで泣きじゃくっていた。男には決してさんの姿は見えない。視線すら交わらない。こんなにもまださんは彼のことを思っていても、もう遠い人なのだと思わざるを得ない。さんが生きている人ではないのだと、俺も改めて実感する。ずきりと、心臓が痛んだ。さんとは、俺も生きることはできないのだ。 「でも、がいなければなかった幸せもあった」 可能ならそう伝えてくれ、と言うと、男は家族と共に去って行った。残された俺は、さんにどんな言葉をかければいいのか分からず、振り返ることができない。しゃくり上げる声は絶えることなく、けれど俺には彼女の涙を拭ってやることもできない。頭を撫でてやることができなければ、抱き締めてやることもできない。どうやって慰めてやればいいのか分からなかった。ただ、さんが泣きやむのを待つことしかできず、呆然と立ち尽くす。 これで良かったはずだ。彼女の願いだったはずだ。なのになぜこんなにも受け入れることができないのだろう。 さんは一頻り泣いた後、俺より先に口を開いた。 「なんでだろう、分かっていたのにね。七年も経てば彼は彼のそういう幸せを見付けているって、分かっているはずだった。それをちゃんと確かめるはずだったの」 振り返ると、涙でぐしゃぐしゃの顔をしているさんがいた。さっきまでと同じように笑おうとして、笑えなくて、とんでもない顔になっている。それを知ってか知らずか、それでも笑おうと無理をして引き攣る頬、溢れたまま止まらない涙に、俺は顔を歪めるしかできない。 こういう時、気の利く言葉が何も言えないことが悔しかった。日本語が苦手だからだとか、そういう問題ではない。目の前で女の人が泣いていて、それをどうすることもできない情けなさに、俺はただ拳を握り締めるしかなかった。 これで良かったはずなのに、こんなはずじゃなかったという思いでいっぱいになる。 「嬉しいはずなのに、やっぱりこういうのって、寂しいものだね。私がいるはずだった場所に、他の女の人がいるのって」 「で、でも!」 「…でも?」 「あの人は、さんがいたからあった幸せもあったって、言ってた」 「そうだね…」 「俺も、たった二日間だけど、さんと過ごせて楽しかった」 「火神くん…」 じゃあもういいや、と言ったさん。それは諦めではなくて、四肢にぐるぐると巻き付いた鎖を振り払ったかのように見えた。全て振り払って、すっきりしたかのような。 多分、未練がなくなったのだろう。さんの身体がどんどん透明に近付いて行く。思わず掴もうとして腕を伸ばしても、俺の手は彼女の手をすり抜ける。それを見て、さんは困ったように笑った。そして小さな子どもを宥めるかのような声音で、最後に告げて彼女は消えた。 「またね」 *** 「火神選手!今年は大活躍の年でしたがいかがでしたか!」 「火神選手こっちもお願いします!」 あれから何度、12月31日を迎えただろうか。あっという間に月日は経って、俺は念願だったプロのバスケプレーヤーになっている。 この日になると、毎年さんを思い出す。「またね」の言葉の意味を、あの言葉の続きを待っている。その“また”は今年も来なかったなと、苦笑いをして一年を終えるのだ。 マスコミに囲まれながら対応をしていると、ドン、となぜか腰の辺りに強い衝撃が走る。思わず前によろけると、辺りは俄かにざわついた。後ろを振り返ると、小さな女の子がお母さんに腕を引っ張られて立たされている所だった。お母さんの方と目が合うと、「すみみません!」とすごい勢いで頭を下げて謝られる。 「ほら!あなたも謝りなさい!」 「…?」 「だってやっとかがみ選手に会えたんだもの!」 「すみません、この子、ずっとあなたのファンで…」 しゃがんで小さな子どもと目線を合わせると、子どもはぱあっと顔を明るくして思いっ切り笑った。そして俺の首に飛び付くと、耳元で叫んだ。 「会いたかった!」 Fin. (2013/12/31 Thanks...NEO HIMEISM) |