呼吸のできない水槽の烏丸視点





 少し前までなら幼馴染、と呼ぶことができる人がいた。三つ年上のその人は、どんどん俺を置いて大人になって、俺より先に制服を着る期間を終えた。それと共に離す機会も減って、幼馴染とは言い難くなってしまった。さん―――俺がずっと追いかけて来た人だ。親同士の仲が良いと、自然とさんの情報も入って来る。どこの高校を受験した、どこの大学に進学した―――それだけじゃない、いつの間にかボーダーの入隊試験を受けて落ちていたことも。けれど、戦闘員ではなくメディア対策室に採用されたらしいことも、当然知っていた。さんの方は何も知らないだろうけれど。
 なぜメディア対策室なのかはよく分からなかったが、少し経ってからいつも流し読みしていた内部向けの広報の新規採用欄にその名前を見付けた。メディア対策室広報課、。だがさっそくその広報の編集者欄にさんの名前も載っていて、入って早々使われてるな、と思った。
 それと共に少し安心した。遠くなってしまったとばかり思っていたさんが、支部は違えど同じボーダーの中にいる。あの基礎の運動神経からして戦闘員は向いてなさそうだとは思っていたから、入隊試験を受けようと思った経緯も謎だが、とりあえず安心だ。広報課なら緊急招集もなければ戦うこともない。出勤していても基地内だから安全である。

「今月の広報置いとくからみんな読んでおけよー」

 支部長がやって来て人数分以上のそれをどさりを置いて行く。それを真面目に読んでいる人間はあまりいないと思う。ランク戦関連のことなんて観戦していれば分かることだし、臨時の新規採用がどうこうと言うのは大体が非戦闘員で、異動や転属は広報が出る前に通達される。今時、紙の広報もどうなんだと思うくらいだ。
 けれど、さんが携わるようになってからは、俺も広報を真面目に読む少数の内に入っていた。そして今月の広報、二つ折りのそれを開いて最初に目に飛び込んで来たのは一枚の写真だった。

(綾辻さんと……さんか?)

 それまでなかったコーナーが広報上に登場している。さんが綾辻さんに隊のことやら何やら、色々インタビューしているのだ。いつの間にこんな仕事を、と思ったが、頼まれたら断れない性格のさんだ。自発的にやったとは考えられないこの企画も誰かに押し付けられでもしたのだろう。
 そこでふと、上がさんをメディア対策室に採用した理由が分かった気がした。さんは元々面倒見も良く、話し上手の聞き上手、飛び抜けて芸能人のように可愛いということはないが、外部の広報に持って来ても見劣りはしない。これだけ条件が揃えば、いずれは嵐山隊のようにメディアに出されることもあるかも知れない。幼馴染の贔屓目抜きにしてもだ。
 小さいが、綾辻さんと映っているさんが眩しい、気がする。でもこれはよそいきの顔だ。本当のさんはこんな笑い方をしない。

「おー、これが例のちゃん企画か」
「迅さん知ってたんすか」
「広報課に知り合いがるからなー。採用当時は現役高校生が入って来たって騒いでたぞ」
「へえ」
「採用されてすぐに一回だけ会ったけど垢抜けたなあ」
「垢抜け…」

 確かに、高校を卒業してからさんはますます可愛くなったし、きれいにもなったと思う。これが大学生なのか。

「来月はどっかの隊長の所に押し掛けるって言ってたかな」
「詳しいすね」
「このちゃん企画もそいつの入れ知恵らしいからな」

 また広報にも遊びに行くか、なんて冗談のように言いながら迅さんは広報誌を一部手にして部屋を出て行った。…迅さんと言えば、結構誰かれ構わず女性の尻を触っている。広報に行ってさんが被害に遭わなければいいが、最早それを忠告する術はない。電話番号もアドレスも知らないし、家の前で会っても挨拶くらいしかしない。
 仕方ない、自分が蒔いた種だ。さんが高校を卒業する時、俺からさんに告白した。大学に行けばもっといろんなやつがいる。きっとさんを狙う男ももっと出て来る。どうやら高校三年間は誰とも付き合わなかったというか、高校二年以降ボーダーでの仕事も忙しくそんな暇はなかったそうだが、大学に上がればそれも分からない。だからその前に、少しでも俺を意識して欲しくて伝えたのだが、これが変な方向に効果があり過ぎた。
 さんは大分気まずいらしく、挨拶すらもぎこちない。引きとめようと思っても、そそくさと家の中へ入って行ってしまう。それならいっそ、俺も本部に様子を伺いに行くべきか。いきなり広報誌に綾辻さんと出て来たことも驚いたが、来月はどこかの隊長だなんて、どうやって話を繋げたのだろうか。さんの所属する広報課はあまり外と接触しないはずだし、まだ未成年のさんは飲み会に行くことがなければ、戦闘員に知り合いがいるとも思えない。自ら作戦室にでも乗り込んだのだろうか。
 こんなにもさんのことを知らない。思った以上に距離はあるみたいだ。



***



 迅さん曰く“ちゃん企画”のさんのインタビュー記事は、随分評判が良いらしい。普段話すことのできないA級部隊やB級の上位部隊の人間を呼んで、いかにも入りたてのC級隊員が聞きたいような話を上手く引き出している。それもあるのだろうが、俺がよく聞くのはそれよりも「さんに会ってみたい」だった。さんは写真映りが良い(いや、写真だけでなくもちろん実物もなのだが)。この小さい写真で隊員の心を掴んでしまうのはなかなか厄介だ。広報課は外にあまり出て来ないため、会おうと思ってもおいそれと会えるものではないのがせめてもの救いか。こっちから広報課への用事というのも、滅多にない。俺も足を運んだことがない。…迅さんは本当に遊びに行ってそうだが。
 ダメ元で会いに行ってみるか、なんて考えが頭を掠める。今日なら時間があるが―――。

「やっぱこのさんって可愛いんだよなあ」
「綾辻さんとのやつは置いてあるわ、俺」

 行くしかないな。先回りしてもう一つ釘を刺しておいた方がよさそうだ。今はオペレーターと隊長を交互にインタビューしているが、その内めぼしい隊員や話しやすい隊員を見付けてピックアップなんてされたら―――そう思うとぞっとしない。広報誌で最近のさんが分かるのは嬉しいが、顔を出すことによっていわゆるさんのファンができてしまったと言うのは面白くない。

 結局、特に用事もなく本部に足を運んでしまった。とはいえ、さんが広報課の外に出ているとも思えないし、このまま本当に広報課に行ってしまうべきか。当てもなく探し回るよりは手っ取り早そうだ。そこで周りに騒がれようと俺は気にしないし、言い訳くらいならいくらでも作れる。何か噂になればそれはそれで別に構わない。
 しかし、思いの外簡単にさんは見つかった。ガシャン!という派手な音がしたかと思うと、一つ角を曲がった先にごみ箱に空き缶を投げつけているさんがいた。切羽詰まっているらしい。だがここで話しかけない手はない。せっかくのチャンスを逃す訳にはいかない。俺の姿を見付けると、引き攣った顔をしてさんは「京介くん…」と言った。

さん今日も元気すね」
「あ、あはは…」
「仕事ですか?」
「あー、うん、まあ……知ってた?」
「そりゃ、広報は玉狛にも届きますから」
「よ、読んでるの…」
「まあ、一応」

 一応どころか、毎月しっかり読んでいる。さんが広報課にいることを俺は知らないと、今の今まで思い込んでいたらしい。それも含めてこれまで何度も話をしようと思っていたのに、逃げていたのはさんの方だ。確かに気まずくしてしまったのは俺が原因だけれど、ここまで避けられたりあからさまな態度をとられたりするとさすがに面白くない。なかなか目を合わせてくれないさんは、早く部署に戻りたくて仕方がないという顔をしている。けれどそう易々と帰す訳にはいかない。広報誌の話で引きとめるが、まさか二宮隊にまで行っているとは思わなかった。どう考えても断られるような人ではないか。どうしてそんな無茶を、と頭を抱えたくなる。聞けば、インタビュー時は相手と二人きりだと言うし、あの写真はセルフタイマーで撮ってるものだとか、俺がひやひやする話しか出て来ない。
 やっぱりさんは遠い。いつの間にか知らない所で動き回って、知らない内に誰かと関わりを持っている。そうだ、さんには危機感が足りないんだ。

「今月は」
「え?」
「今月はどこの隊長ですか」
「そ、それはちょっと言えない…一応仕事だし」

 確かにそれもそうだ。けれど、とりあえずどこかの隊長と話をしたと言うことは分かった。仕事に戻りたくて仕方ない、というさんの腕を掴んで引きとめる。

さん、オペレーターならうちにもいます」
「え?ああ、うん、知ってる…元風間隊の…」
「あの記事は本部の隊員に限定してるんすか」
「そう言う訳じゃないけど…伝手がないし…」
「俺が話つけます」
「うん………うん!?」

 待って待って、と叫びながら俺の腕を振り切る。さんは自覚がない、自分が広報に載ることで有名になっていると言うことを。今だって通り過ぎる隊員たちはずっとさんを気にしている。滅多に広報課の巣から出て来ないさんは、なかなかお目にかかることのない人物なのだ。俺がいなければ簡単に話しかけられているだろう。
 さんは泣きそうな顔をしていた。それでもさんはやっぱり可愛くて、写真補正のお陰なものがあるか、と言いたくなる。昔から知っている。さんは性格も含め、全部可愛い人なのだ。その癖自覚はないしガードが緩いものだから、きっと内部メールは大変なことになっているに違いない。まさかその一通一通に返事をするほど暇でもないだろうが。

さん、さんは可愛いです」
「だから、何言って…」
「すぐには吹っ切れません、ずっと好きだったんで」
「いや、だからね、」
さん、まだ誰かのものにならないで下さい」

 せめて俺が追いつくまで。今すぐにとは言わないけれど、さんがこのまま意識し続けてくれていれば、そう誰かが入り込む隙なんて生まれない。だから、さんには悪いけれど、気まずいだとか、意識してしまうだとか、その感情をまだ持ち続けていて欲しい。きっとまださんにとっては弟のようなものだから、さんがちゃんと俺を“そういう”目で見てくれるようになるまで。
 でも、今にも泣き出しそうな顔をしながら小さく頷くさんを見れば、そんな日もそう遠くはないな、と思った。とりあえず、こんな顔は絶対にの誰にも見せてはいけないだろう。





(2016/01/19)