その女は、酷く冷たい眼をしていた。裏社会にいたとなれば、冷徹な眼をしている人間など数知れず居る―――否、殆どである。だがその女の眼は一際冷たかった。その麗しい容姿だからこそ、思いも掛けない冷たさだったからかも知れないが。何にせよ、その双眸に射抜かれると共に囚われてしまったのだ。恐らく、永久に。 鳥篭に朝は来ず 太宰に女性の同居人が居る、というのは、最近探偵社で密かに囁かれている噂である。誰が言い出したのかは最早不明であり、中身も元を辿れば「女性と歩いているのを見た」程度なのかも知れない。噂に尾鰭がつくのは仕方のないことではあるが、どうもその噂が真実らしい事を臭わせるような側面を、最近太宰は漂わせていた。美女と心中したい、という願望は消えぬままではあるが。 時は昼過ぎ、特に大きな依頼もなく、小さな仕事を片付けに宮沢が出ている以外は、皆が事務所に控えていた。熱心に仕事をしているのは国木田くらいであり、乱歩も、そして件の太宰も欠伸をしてデスクに頬杖をつくなりソファに寝転ぶなりしている。 暇だなあ、うとうとしながら呟く太宰に国木田が青筋を立てる。 「ならば少しは手伝え!書類がこんなにも!」 「私に書き物を任せても良いのかい?」 上体を起こして返された言葉に、国木田は押し黙る。この男に 「君、恋人なんかは居ないのかい」 「はっ!?」 突拍子もない問いに、敦は顔を真っ赤にして声を裏返した。なななななにをいっているんですか、そうぎこちなく返答する新人職員の少年は、こう言った手の話に慣れていないらしい。無論、彼の生い立ちを考えれば色恋などとは無縁であったことは容易に想像できる。だが、暇を持て余した太宰にとって、敦は格好のからかい相手なのだ。 未だ湯を沸かしたやかんのように湯気を出している敦だが、「そういう太宰さんこそどうなんですか!」と絶妙な返しをした。これには、事務所に集っていた一同も耳を欹てる。何せ、太宰が女性と同棲しているという噂は、この面々の耳にも当然入っていたからだ。だが事の真相を誰も知りはしない。 はぐらかすか、誤魔化すか、どちらにしろ正直に答える筈のない太宰に、誰も期待はしていない。だがもしや、という一縷の望みにかけ、国木田までもが仕事の手を止めていた。それに気付いているのかいないのか、太宰はいつも通り飄々とした様子で答える。 「居るよ」 ガタン、ゴトン、ガシャン、あらゆる音が太宰の一言で事務所内に響き渡る。一方では椅子が倒れ、また他方では人間がずり落ち、また他方では位置を変えようとしていた植木鉢を見事粉々にしていた。そんなに驚くようなことかい、と言って見せる彼は、自身の発言がどれほど重大であるかを全く自覚してはいない。 敦はそれ以降の会話に困り、探偵事務所の面々を振り返る。だが、誰もが皆「もっと深く聞け」と目で訴えて来ていた。恐る恐るどのような女性ですか、と聞けば、また端的に答えた。死相が出ている、と。 「し、しそう…って、死相?」 「病人みたいに色は白いし、目に光はないし、何をするにも疎いと言った風でね。ああ、名前は祈鳥と言うんだ」 そのような また、太宰と言えば常日頃からあらゆる自殺マニュアルを実践しており、その都度失敗に終わっている。“人に迷惑をかけない清くクリーンな自殺”やら、“苦しくない自殺”やら、“美女との心中”やら、およそ常人には理解できない思想を抱いており、そのような変わりものと寝食を共にする女性など、まるで想像がつかない。太宰以上の変わり者とでも言うのだろうか。誰もが太宰の同棲相手を思い浮かべて唸った。 「彼女と心中しない理由はただ一つ」 「一つ?」 「いきたがりなのさ」 いきたがり―――聞き慣れない言葉に、またもや敦は首を傾げた。数回頭の中で繰り返し、死と相対する言葉を閃いた。生きたがり、つまりは太宰とは真反対の性質と言うことだ。それなら尚更、真逆の思想の持ち主を恋人とするのか、謎は深まるばかりである。せっかく噂の真相緒突き止めたと言うのに、何処かすっきりとしない。 益々頭を悩ませる仲間を見て、太宰は愉快そうに笑った。恐らく、祈鳥の存在を話したとなれば、彼女自身は気を良くしないだろう。まるで影のように生きて来た女だ、正体を明るみにされることを好ましく思っていない。彼女を見付けたのもこの街界隈ではない、もっと暗い場所だった。 だが、生き甲斐もなく漫然と生きながら、彼女はそれでも生に執着した。心中話を持ち掛ければ首を横に振ったのだ。「貴方のことを嫌悪はしておりませんが、心中する気は努々御座いません」と。しかし一言を足した。今はまだ、と。 「だから私は彼女が心中してくれるまで待っているんだよ」 「でも、彼方此方で女性に声を掛けようとしているじゃないですか…」 「若し彼女より先に良い頃合いの美女を見付ければ、その時はその時だって言ったからね」 「その…祈鳥さんが、ですか」 「そう、祈鳥が」 まるで探偵社員とは思えぬ曖昧な契約だ。けれど太宰は、最早彼女とは最期まで共に過ごすのだろうと言う事を予感していた。彼の小さな借家に彼女を閉じ込めたようでいて、実は自分の方が囚われている事に気付いている。祈鳥の闇しか映さない暗く冷たい目を見た時から、既に太宰の心は彼女の内側に在るのだ。どれだけ心中相手を探せど、何れは祈鳥の元へ戻って来る。祈鳥のために用意した鳥篭は、自分の帰る籠になってしまった。まるで帰巣本能を植え付けられたかのようだ。 話は途切れ、また暇となった太宰は欠伸を一つする。未だ事務所内は気まずい雰囲気が漂っては居るが、呼吸くらいは正常通りに出来ているらしい。先程までの張り詰めた空気は幾分か和らいでいる。 太宰はゆっくり目を伏せた。その瞼裏には鍵の無い鳥篭で待つ彼女を思い描く。生きているのか死んでいるのか分からないような血色をしながら、唇だけは紅をはいたように赤い女。誰も必要としないと言いながら、夜毎自分の手を離さずに眠る女。真っ暗な二つの眼と視線が交わる度に、何とも言えない興奮が脊髄を通って駆け上って来る。 その度に思うのだ。この女も自分も何処にも行けやしないのだと。 (2014/04/17) |