引き寄せられた腰、髪を撫でる大きな手、安心する慣れた温度、そして近付く唇。 「あ…待って…」 しかしそれを制止した。途端、不機嫌さを隠すことなく顕わにする彼。しかし制止の声を無視して続けようとする彼の唇に、手の平を押し付ける。するとますます険しい顔をし、右の手首を掴むと親指の付け根から遠慮なしに噛み付いた。「いたっ!!」叫んでも無視で、他の指には丁寧に口づけて行く。段々と恥ずかしくなり俯けば、「拒む理由はなんだ」と僅かに焦りの色を滲ませた声が降って来る。 「…笑わない?」 「理由によるがな」 「口内炎が痛いの」 「お前はアホか」 呆れたらしく溜め息をつくと、油断した唇を一瞬で奪う。たったそれだけで満足したらしい彼は、今度は前髪に口づけ、そこをくしゃりと撫でると医務室を出て行った。そして一人残された自分はへたり込んで呟く。 「リヴァイのばか…」 体中が熱い。 *** 目が覚めて最初に襲われたのは罪悪感だった。他の誰でもない、昨日学校にやって来た教材メーカーの彼に対してだ。更に言うとエルヴィン先生の知人でもある。 これまではまだ良かった。夢の中で彼と何をしていようと、それはただの夢で、現実には存在しない相手だったからだ。ただ自己嫌悪に陥るくらいで。けれど、その彼はあろうことかこの現代に存在してしまっている。今まで見たあんな夢やそんな夢を思い出すと、罪悪感や自己嫌悪という言葉だけでは足りない。 どんよりとした気分で出勤すると、エルヴィン先生ににこやかに声を掛けられた。 「昨日はすまなかったね」 出勤して真っ先に報告に行こうと思っていたのだが、先越されてしまった。申し訳なく思いながら「いえ」と返事をすると「大変だったそうだね」と苦笑するエルヴィン先生。私の酷い顔を見てその言葉が出て来たらしい。直接的には何もされてはいない。ただ、メールアドレスを勝手に登録されたくらいだ。今朝の私の顔が酷いのは夢見が悪かったのが理由であり、昨日の彼が原因ではない。 「なんでも無理を強いたようじゃないか」 「えぇ!?」 アドレス登録のことだろうか。一体誰がそんなことまで―――私の席の方を見ると、向かいのデスクの先生が笑いながら親指をぐっと立てていた。ここはそんなポーズをする所ではない。顔を引き攣らせながら笑うと、再びエルヴィン先生は謝罪を口にする。先生のせいなどではないのに、本当に律義な人だ。そんなエルヴィン先生に「気にしてませんから」と言って私も笑う。 別に、連絡先を教えられたからと言って私が連絡をするようなことは何もない。エルヴィン先生の古い知人なら、アドレスや電話番号を悪用するような人間でもないだろう。 それでも、なぜだろう。私は昨日、エルヴィン先生のアドレスだけを打ち混まれたメールを彼から受け取り、それ以外のメールを期待していた。私は私で“ありがとうございます”という至って簡素な返事をしたけれど、当然のようにそれに対する返事はない。期待した、待っていた。眠って、朝起きて携帯を開けたら彼からメールが届いていないかと、期待していた。けれど見事にそれは打ち砕かれた訳だ。残ったのは彼に対する大きな大きな罪悪感だけ。 「ところで、二つほど聞きたいのだが…どちらかの耳が聞こえにくいということはないかな」 「耳ですか?いえ、どちらも普通に聞こえます」 「では昔、声が出なかった時期があったことは?」 「そんな話は親から聞いてませんが…」 随分と変わった質問をする。誰か、身内にそういったことで悩んでいる人がいるのだろうか。いや、しかし今の訊ね方は間違いなく私個人に対する質問だった。要領を得ないまま、エルヴィン先生は「変なことを訊いてすまなかったね」と言って私の肩をぽんと叩く。先生のことだから深い意味はないのだろうが、私は昔から健康体そのものだ。首を傾げる私に、「そうだ、先生」とややわざとらしく話を続ける。 「迷惑をかけた代わりに、飲みにでも行かないか」 「そんな、わざわざそこまでして頂かなくても…!」 「先生とゆっくり話してみたいこともあったしね」 「は、はあ…いつでしょうか」 「今日」 「はっ?」 「今日」 何でも緻密に計画を立てそうに思えたエルヴィン先生が、実は結構無謀なこともするものだと思った瞬間だった。結局、今日は金曜日であり特に予定もない私は、エルヴィン先生の誘いを受けたのだった。 |