大輝くんとの会話は、目に見えて減った。大輝くんにぶたれて腫れた頬が治っても、私たちは気まずいままだった。お母さんは「兄妹喧嘩なら早く仲直りしなさい」と言うけれど、お父さんも同じように心配してくれているけれど、そんな簡単な問題ではなかった。私は、大輝くんもお母さんもお父さんも裏切るようなことを言ったのだ。あの言葉をなかったことになんてできるはずがなく、あの言葉で私自身をも貶めていた。お母さんとお父さんがあの言葉を聞いたら、どんな顔をするだろう。もう追い出されてしまうだろうか。そうしたら私はどこへ行けばいいのだろう。 そう思うと、急に自分の部屋すらよそよそしさが滲み出て来るような気がした。ずっと暮らして来た家なのに、私の家じゃないみたいだ。 (私の家…) 私の家と言って良いのだろうか。毎日帰って来る場所だけれど、私はまだ、ここを“私の家”と呼べるのだろうか。 苦しい。いつまで悩まなければいけないのだろう。まさか、ずっと大輝くんとはこのままなのだろうか。たった一度のすれ違いで二度と回復できない仲になるなんてことは、しばしば耳にする話なのだ。それが例え、血の繋がった家族だろうと。じゃあ、私はどうなる。本当は血の繋がっていない私は、たった一度のすれ違いが大きな大きな、もう二度と埋められない溝になってしまったのだろうか。 あれから、学校の帰りもずっと一人だ。一人で帰宅して、誰かが帰って来るまで部屋で怯えて過ごしている。二階にある自室の真ん中で蹲ったまま、何もできず、動けずにいる。大抵、お母さんが最初に帰って来て、それを確認して一階のリビングまで走って降りて行くのだ。幸い、雨が降ったり雷が鳴った日はなかった。けれど、これからもずっとそうとは限らない。 早く帰って来て、誰でも良いから早く―――そう願いながら今日も蹲っていると、突然携帯が震えた。 「も、もしもし…」 「こんにちは、黒子です」 「テツヤくん…?」 電話越しによく知った声が聞こえ、ほっとした。震えていた手が少し収まる。一人で家にいる孤独と恐怖は、何年経っても薄れてはくれない。テツヤくんに悟られてしまわないよう、私はできるだけ声が震えないように気を付けた。 「少し、ちゃんと話したいことがあるんです。…青峰くんのことなんですが」 「え…」 大輝くんの名前が出た途端、どくん、と心臓が跳ねる。おかしいとは思った、連絡先は知っていても、私がテツヤくんと実際に連絡をとったことなんて数えるほどしかない。だからきっと、何かあると頭の片隅では引っ掛かっていた。 一気に動揺に襲われる。まさか、今の状態をテツヤくんは知っているのだろうか。私が勝手に帰った日、テツヤくんも随分私を探してくれたらしいけれど、その後のことを大輝くんは話しているのだろうか。…けれど、そんな心配は「青峰くんとは仲直りしましたか」という一言で掻き消された。 「それが、まだで…」 「青峰くんは怒ってませんよ」 「でも気まずくて、今はもう、帰りも別々だし、話もしてません」 「…………」 「謝りたいのに、なんて言ったらいいのか分からないんです。次に拒絶されたら私はもう、行く場所も…っ」 泣いちゃだめだ、と思うのに、あれから初めて零した心の内に、つられて涙がぼろぼろと落ちて来る。 テツヤくんの言うとおり、大輝くんはもう怒っていない。それは見ていても分かる。大輝くんは分かりやすいのだ、だから怒っていたらもっと不機嫌そうにするし、お母さんやお父さんに対しても口調が荒くなる。けれどそうじゃない。ただ、お互い何も言わないのだ。朝一番に顔を合わせても視線を逸らす。一緒にご飯を食べていても会話の一つもない。 ごめんなさいと言えば、大輝くんは許してくれるのだと思う。またこれまで通り、一緒に帰れるし、話もできるのだと思う。けれど、前の私たちにはもう戻れない。一度私が「本当の兄妹じゃない」という禁忌の言葉を言ってしまったから、きっとそれはいつまでも纏わりついて離れなくなる。 「ちゃん、たとえ間違っていてもやり直せるのは今しかないんですよ」 「へ……」 「時間が経つほど、大人になるほど修正と言うのはしにくくなるものです。今を逃したら、本当に後がなくなってしまいます」 「もう遅いんじゃ…」 「二人は、始まってもないのに何が怖いんですか?」 仮定を恐れることにどんな意味があるんですか―――テツヤくんは、至って冷静な声で私にそう問いかけた。顔は見えないが、きっといつもとなんら変わらないあの表情で言っているのだろう。テツヤくんの言葉が、私の心臓をぎゅっと縛った。怖いことなら山ほど出て来る、数え切れないほど出て来る。けれど、それらは全て無意味だとテツヤくんは言った。 「だって青峰くんがちゃんを手離すはずがありませんから」 「それは、どういう、」 「ここから先は青峰くんに直接聞いて下さい。僕が言えるのはここまでです」 そうして、テツヤくんとの通話を終えた。そして余計に、心の中が掻き乱される。大輝くんが私を手離すはずがないとはどういうことか。 薄々、私たちはお互いの気持ちに気付いているけれど、気付かないふりをしなければならないという暗黙の了解があった。私たちは飽くまで兄妹でいなければならない。それが何よりも幸せなことだと信じているのだ。私たちがお互いを兄妹だと、ここが私の帰る家で、ここにいるのが私の家族だと強く強く信じていれば、思っていれば、私と大輝くんの縁が切れるはずがない。多少の喧嘩をしたって戻って来られるのだ。けれど心のどこかに疚しい気持ちや疑う気持ちがある限り、私はこの家とは脆い糸で繋がっているだけ。それはいつ切り離されるか分からない不安定さを孕む。 恋人といういつか終わりが訪れるかも知れない関係よりも、兄妹という一生続く繋がりを私は願っている。つまるところ、大輝くんと離れたくないのだ。それなのに、自ら離れるようなことをしてしまった。後悔ばかりが私を苛み、責め続けている。自分のせいなのに、今更謝って大輝くんはこれまでどおりに接してくれるのだろうか。一緒に帰ったり、ご飯を食べたり、出掛けたり、妹として可愛がってくれるのだろうか。 (妹として……) そんなの嫌だ。心がそう叫ぶ。もう一度大輝くんと向かい合った時、ちゃんと兄妹としてやり直したいと本心から言える自信がない。良くも悪くもテツヤくんの言葉に影響されてしまった。もう、良い妹にはなれない。 また心臓の拍動が速くなると共に、突然部屋が暗くなった。外を見ると随分雲行きが怪しい。そしていくらかもしない内に、窓にぱらぱらと雨の粒が当たる音が聞こえて来た。その瞬間、眩暈が起こる。ぐらりと視界が歪み、片方の手を床につくと、もう片方の手で頭を押さえた。ぐちゃぐちゃになった心の中を反映したかのように、目に見える世界までぐにゃりと歪む。歪んだまま、ぐらりと揺らいだ。するともう、息もできない。いや、息はできているはずなのだ、できているはずなのに苦しい。酸素が酸素として体に取り込まれていない。自分の体すら重くて、そのまま床に倒れ込んだ。ごん、と頭を打ったけれどその痛みすらよく分からない。 「助けて、大輝く…助け…っ」 喉から声を絞り出す。結局、最後に縋るのは大輝くんなのだ。いつも、何があっても助けてくれた大輝くん。小さい頃から私の世界は大輝くんでいっぱいだった。いつの間にか、もう大輝くんしか見えなかった。苦しい時に一番に駆けつけてくれた大輝くんを、今もまだ信じている自分がいる。私が苦しい時、まるでテレパシーで通じているかのようにタイミング良く現れてくれる大輝くんを、今この瞬間、ドアを開けて入って来てくれると信じているのだ。いつだって私は盲目的に、大輝くんのことばかりを考えていた。 「大丈夫か!」 涙と眩暈でぐにゃりと歪んだ視界では上手く捉えられない。雷と雨の音ばかりを拾う耳では近い声すら遠くなる。私は都合のいい夢でも見ているのだろうか。強く望んだから神様が見せてくれた幻なのだろうか。大輝くんが、帰って来てくれたなんて。突然の大雨で傘など持っていなかったのだろう、全身ずぶ濡れだ。そんな格好で家に上がったらお母さんに怒られるのに、と余所事のように思った。 「おい」 「……じゃ、な……」 「しゃべるな、ちゃんと息をしろ!」 「だいじょうぶじゃ、ない…っ!」 大輝くんに縋りたい、傍にいたい。大輝くんと生きたい。私はもう、大輝くんとじゃないと幸せになんてなれない。 抱えて起こしてくれた大輝くんに手を伸ばし、ぎゅっと抱きつく。さっきまで力なんて入らなかったのに不思議だ。大輝くんを離すまいと、強く、強く抱き締める。大輝くんからの反応は何もない。きっと困っているに違いない。突き離してみたり、縋ってみたり、こんな我儘な妹に呆れているのかも知れない。まだ妹と思っていてくれているかは分からないけれど。けれどどうせもう関係の修復が不可能なら、と私は消えそうな声で伝えた。 「大輝くん、好き」 その言葉を最後に、沈黙が訪れる。窓の外から響く激しい雷の音も、窓にぶつかる大粒の雨の音も、何も気にならない。ただ、息を詰める大輝くんを全身で感じ、どんな小さな声でも逃すまいと耳に神経を集中させた。そしてじわじわと私の制服も雨で濡れ始める頃、大輝くんはゆっくりと私の背中に手を回した。大輝くんの短い髪から落ちた雨粒が私の頬を伝い、涙と混じって制服に染み込んで行った。 |