両親は共働きで帰りはいつも私より遅くなる。大輝くんは練習でそれより帰りが遅い。となると、部活も入っていない私は自然と帰りが誰よりも早い。この歳にでもなれば、一人で留守番だとか、鍵っ子なんていうものは珍しくない。けれど、家族はみんな、私を家に一人でいさせることに反対した。一人での留守番は、私にパニックを起こさせることがあるからだ。ただの留守番でも不安を覚えることは多少あるが、雲行きが怪しくなって来ると途端に一人が恐ろしくなる。雨が降ってくれば、動悸がする。雷なんてものが鳴れば、パニックに陥り息さえできなくなってしまうのだ。
 それ以来、どんなに晴れていても私が一人で留守番することはなくなった。

 ―――今学校終わったから、そっちに行くね。
 ―――おー。気をつけて来いよ。

 学校が終わると、私は大輝くんのバスケの練習場所に寄り、練習が終わるのを待って一緒に帰るのだ。練習中は隅っこで邪魔にならないように宿題や予習をしながら過ごす。そして時々、練習中の大輝くんを見る。
 バスケをしてる時の大輝くんは、文句なしにかっこいい。私はルールなんてゴールにボールを入れたら点が入る、といった基本的なことしか分からないけれど、これまでの大輝くんを見ていても、大輝くんは人より頭いくつ分も抜きん出て上手いのだろう。普段は私と同じで大輝くんに散々文句を言ったりするテツヤくんやさつきちゃんでさえ、バスケに関しては何も言えないらしい。
 そんな大輝くんが私は誇らしかったし、大輝くんが唯一べたべたに甘やかしているのが私だと言うことも、優越感を感じていた。きっと大輝くんは私がいるせいで彼女ができないのだと思う。私さえいなければ選びたい放題なのだろうと思う。

「それじゃあ、また明日ね!お兄さんによろしく!」
「うん、伝えとく」

 シーズンにはスポーツニュースにもよく名前が出て来るほどになった兄は、バスケ好きの友人にしてみれば人気アイドルや俳優と同じなのだと言う。熱狂的な高校野球ファンや大学野球ファンがいるように、彼女はバスケ好きの父親に影響されて小さい頃からバスケファンなのだという。私の苗字を見て「もしかして」とミーハー心から声をかけて来た彼女だが、今ではすっかり良い友人だ。一人で留守番をできない理由もよく理解してくれている。
 本当は一緒に帰って寄り道もしたいのだが、仕方ない。家族に心配はかけられないのだ。そうして、今日も一人電車に揺られて大輝くんの練習している体育館へ向かう。こうして私が見学扱いで体育館へ足を踏み入れられるのも、理解あるチームのお陰だ。だから時々雑務をお手伝いしているのだが、あまり大輝くんはそれを好ましく思っていないみたいだ。

(ちょこまか動かれても邪魔なだけかなあ…)

 大輝くんの役に立ちたい。世話をしてもらってばかりじゃなくて、私だって力になりたい。それは、家族としてなら当然の気持ちだろう。お母さんだってなんだかんだ毎回試合を観に行っているし、お父さんも新聞記事やテレビニュースは欠かさず見て理う。それぞれの応援の仕方がある中で、家族の中で一番多く時間を共にする私にできることって、一体何なのだろう。

(家族……)

 何の疑いもなくそう思っているけれど、物心がつくかつかないかくらいに青峰家に引き取られた私は、もうずっと複雑な心境だ。私を生んだ母親のことは何も知らない、父親のことも何も知らない。私をずっと育ててくれたのはお父さんとお母さん、傍にいてくれたのは大輝くんだ。私が大輝くんやお父さんお母さんとあまりにも似ていないし、周りの心ない言葉を聞いていたから、私が本当に青峰家の娘ではないことは、保育園に行く頃には理解していた。けれど変わらず両親は愛情を注いでくれたし、大輝くんも可愛がってくれてる。過保護の域に入るほどに。
 けれどどうしても、私は本当はあの家の人間じゃないのだという後ろめたさは消えない。大好きな家族、大好きな帰る家、けれどその言葉を口にするのはいつだってぎこちない。一瞬躊躇った後に私の口から出て来るのだ。
 両親は私を大事に育ててくれている。私ができることと言えば、勉強をがんばって公立の学校へ進むことだった。一人で家にいることができれば、平日だって家事をしてお母さんの負担を減らすことができるのに、現実はそう上手く行かない。私はあの家でお荷物になることだけが恐かった。迷惑かけないように、邪魔にならないように、我儘を言わないように、そうじゃなきゃ、いつ愛想を尽かされるか分からないのだ。
 溜め息をついて、青に変わった交差点を群衆に紛れて渡る。先日の大輝くんの同窓会以来、心は憂鬱だ。それと言うのも。

「あっちゃんじゃないっスか!」

 そうそうこんな声の―――頭に思い描いていた人物の声が、直接耳に入る。え、と思い立ち止まり、辺りを見渡すと、斜め前方に件の黄瀬さんがいた。ここ数日の憂鬱はこの人のせいである。

「…いかにも青峰大輝の妹ですが」
「トゲトゲしいっスね…」
「私が黄瀬さんに好印象をお持ちとでも」
「思わないっスけど」

 暇なのか何なのか、「それでは」と言って歩き出す私について来る黄瀬さん。「なんですか」「どこ行くんスか」「関係ないでしょう」「聞くくらいいいじゃないっスか」「じゃあ答えません」意味のない応酬を繰り返す。しかし、目的地を言っていないのにそれでもついて来る黄瀬さん。この人、確か大学生ではなかっただろうか。元チームメイトの妹、しかも高校生を構ってる暇があるなら同じ大学の女の子でも構っていればいいのに。
 基本的に、私は男性に対してかなりドライだ。テツヤくんはちょっと別だが、まず興味がない。私にとって身近にいる男性と言うのが、幼い頃からあまりにもかっこよすぎた。
 大輝くん―――私には、戸籍上は多分一応兄である大輝くん以外、目に入らないのだ。これが恋愛の類のものなのだと自覚したのはまだここ3、4年の話だが、それを除いても、それ以前から私には大輝くんばかりだった。だから、他の女の子だったら叫んで喜ぶであろう黄瀬さんの登場も、私にとっては嬉しくも何ともないのだ。それどころか、先日の初対面を思い起こさせてそれはもう不快な気分になった。

「それ、青葉台の制服っスよね」
「…………」
「中学も帝光じゃないし…なんで青峰っちと同じ学校に行かなかったんスか?」
「…………」
ちゃんってば」

 無視を決め込んでもついて来る。まるで、最初から私について来ることを予定をしていたことのように―――そこまで考えて、ようやく気付いた。きっとここ数日、私を張っていたのだろう。青葉台の制服だよね、なんて確認を入れなくても知っていたはずだ。あんな道端で鉢合わせしてこうしてついて来るなんて、最初から仕組んでいなければするはずがない。恐らく、目的地も知っている。気付いたのが遅過ぎた。もう少し早ければ目的地を家に変えることができたのに、今更リターンして帰宅するなんて不自然すぎる。もう、大輝くんのいる体育館は目の前なのだ。
 本当に、本当に嫌な人だ、黄瀬涼太って。まるでしつこいマスコミのよう。
 そうこうしている内に体育館に到着してしまった。そこでもまたわざとらしい声を上げる。

「ここって体育館っスよね。何かしてるんスか?」

 しらじらしい。余程私の口から言わせたいらしい。苛々も機嫌の悪さも最高潮に達していた私は、とうとう声を上げた。

「いい加減にして下さい!どうせ分かってるんでしょう!」
「毎日毎日わざわざ青峰っちの練習が終わるまで待って一緒に帰る」

 やっぱりそうだ、そこまで知られている。いっそ気味が悪い。何も言えずに唇を噛むと、黄瀬涼太は愉快そうに口元を歪めた。自分より随分小さい私の目線にまで屈んだ、その眼には意地の悪さが映る。握り締めた両手が震えた。爪が食い込んだ手のひらが痛い。でもそうでもしなければ、今にもこんな人の前で泣いてしまいそうだ。
 けれど、そんな私に追い打ちをかけるように目の前の人物は言葉を発する。

「普通の兄妹ってそこまでするんスかねえ。ちゃん、もしかしてブラコン?それとも、」
「う…うるさいうるさいうるさい!!」
「…?」

 ぱんっ、と乾いた音がすると共に、背後からよく聴き慣れた大好きな声がした。私は咄嗟に、デリカシーのない言葉ばかりを吐いて来た男を平手打ちした右手をもう一方の手でぎゅっと握った。ゆっくりと振り返ると、大輝くんが目を丸くしてこちらを見ている。
 もう駄目だ、もう終わりだ、人を叩いている所を見られてしまった。酷いことばかりを言われたとはいえ、大輝くんの元チームメイトなのに。怒鳴られるだろうか、私がしたのと同じようにひっぱたかれるだろうか、それとももう絶縁されてしまうのだろうか。
 絶望で血の気が引いて行くのを感じる。悪い方向へしか考えられず、私は恐怖で震えた。しかし大輝くんは私たちの方へ近寄って来ると、私の腕を引いて庇うように背中で隠した。

「おい黄瀬、に何した」
「妹ちゃんに聞いてみたらいいんじゃないスかね」

 大輝くんの背中からそっと覗くと、またあの意地の悪い眼と視線が合う。びくりと肩が跳ね、またすぐに大輝くんの後ろに隠れた。すると、大輝くんは地を這うような低い声で黄瀬涼太に警告した。

に何かしたら誰だろうと許さねぇ。これだけは覚えとけ」

 そう言い放つと、また私の腕を引っ張って体育館に入る。入口の扉を閉め、完全に外に声が聞こえなくなった所で、大輝くんは私を振り返る。「遅ぇと思ったら何してんだよ」と不機嫌な声で聞いて来た。どうやら、私がいつもより大分遅れたせいで心配になった大輝くんは、少し体育館の外まで様子を見に来たらしい。そこで私と黄瀬涼太を目撃したのだ。タイミング悪く、私が暴言を吐きながら彼を叩いた場面を。「ごめんなさい…」「…いや、何もねーなら…それで…」俯いたまま、顔も上げられない。人に手を上げている所を見られたことも、道すがら黄瀬涼太に言われたことの全てが重くのしかかる。また泣きそうになった。けれど今度は意地を張れる相手ではないため、重力に従ってぽたりと涙が零れてしまった。

「早く、帰りたい…っ」
「…早く終わらせるからちょっと待ってろ」
「うん…っ」

 くしゃっと私の頭をひと撫でして、大輝くんはアリーナへ戻って行った。







  

(2013/05/18)