小さい頃のことはあまりよく覚えていないけれど、一つだけ鮮明に覚えていることがある。ぼろぼろと泣きながら床に額をすりつけるまだ若い女の人と、困った顔をして顔を見合わせる同じくまだ若い一組の夫婦、後ろの扉から覗いている私より少し年上の男の子。その日からその夫婦が私のお父さんとお母さんに、男の子が私のお兄ちゃんになった。 もう一つ覚えていることと言えば、その日は酷い雨と雷だったということくらいだ。 |
「別に一人で大丈夫だって!」 「大丈夫じゃねーよ。何かある度に泣きついて来る癖に」 「こ…今回は大丈夫だよ…!」 兄である大輝くんが高校を卒業して一年、私が高校に入学して二年目の春を迎えた。過保護な大輝くんは未だに私が一人で留守番することを許してくれない。確かに、電話がかかって来たりインターホンが鳴る度にびくびくはしているが、さすがに幼稚園児でもあるまいし留守番くらいできる。それなのに、両親ともに不在の時は、大輝くんは自分の用事をキャンセルしてまで私に一人でいさせない。しかし今日ばかりはキャンセルできない用事だったらしく、私を連れて行くと言い出すのだ。なんでも、中学バスケ部のチームメイト(しかもレギュラー)と同窓会をするのだとか。そんな内輪の集まりに私なんかが行けるはずがない。頑なに拒否するも、納得してくれないのが大輝くんだ。 「大体、私が知らない人ばっかじゃん」 「さつきがいんだろ。あいつも女一人だし丁度良いんじゃね」 「そんな横暴な…」 「テツとも知り合いだろ」 何年前の話を引き合いに出しているのだか。 けれど私が兄に勝てるはずがなく、結局その同窓会とやらに私は行くことになってしまった。半ば、連行されるような形だ。未成年を居酒屋に連れて行く兄なんて、大輝くんくらいではないだろうか。 到着して教えられていた個室に顔を出すと、当然集まっていたメンバーは口を開けた間抜けな顔で私を見る。驚かなかったのは赤司さんくらいだ。大輝くんから話を聞いたり写真を見せてもらっていた私は大体誰が誰だか分かったが、中学が帝光じゃなかった私を、大輝くんのチームメイトが知っているはずない。気まずくなって身を縮ませて大輝くんの後ろに隠れた。見回してもさつきちゃんもテツヤくんもいない。まだ来ていないのだろうか。 「だ、大輝くん…私やっぱり…」 「あ…青峰っちー!そんな幼い子……犯罪っスよ!」 「うるせぇ黄瀬。妹だ」 どうやらまた盛大な勘違いをされたらしい。どこへ行ってもそうだ。私と大輝くんはなかなか兄妹として見られることはない。それは、私たちがあまりにも似ていない兄妹だから。何よりも似ていないということを指摘されることが嫌いな私は、面倒くさそうにしつつも返事をする大輝くんとは違い、黙ってしまう。口々に「似ていない」と言われ、顔が固まるのが自分でも分かった。 その時、場違いなほど明るい「久し振りーっ!」という声が響いた。さつきちゃんだ。その後ろにはテツヤくんもいる。よく知った人物の登場で話は逸れ、私はほっとした。 「ちゃんも来ていたんですね、お久し振りです」 「大丈夫だって言ったのに、大輝くんが…」 「バーカ、この間だってひいひい泣いてた癖によく言う」 「も、もう!言わないでよ!」 何も、他の人がいる前で暴露しなくても良いではないか。大輝くんの腕を叩くと、さして痛くない癖に「あーいてぇいてぇ」などと言う。 大輝くんは、私のちょっとした変化にかなり敏感だと思う。先程の言葉だって、私が暗い顔をしたからわざと言ったのだろう。いつもはテツヤくんの傍に寄って行くさつきちゃんも、気を遣ってくれたのか隣に座るように自分の隣へ手招きしてくれた。左にさつきちゃん、右に大輝くんと、まるで二人が保護者だ。お父さんもお母さんも留守で、大輝くんもどうしても私を連れて出られない時は、いつも代わりにさつきちゃんにお世話になっているから、半分保護者と言ってもおかしくはないのだが。 初めて見る人間が現れた物珍しさで最初は注目を浴びたけれど、今日呼ばれていたメンバーが集まってしまうと、各々が好きに話し始める。その多くがバスケの話であるため、バスケどころかスポーツとは全く無縁の生活を送っている私はさっぱり話についていけない。いつの間にか大輝くんも引っこ抜かれて、緑間さんと話し込んでいる。私の右側はすっかり空いてしまい、さつきちゃんもテツヤくんと話が弾んでいるようだ。私は大きなガラスのコップに注がれたアップルジュースをさっきからちびちびと飲み続けている。すると、それまで大輝くんと緑間さんに交じって喋っていた黄瀬さんが「こんばんは」などと言いながら私の隣に腰を下ろした。 「こんばんは…」 「ちゃん、だっけ?青峰っちに妹がいるなんて聞いてなかったっスよ!」 眩しいほどの笑顔を間近で見せられて、私はややさつきちゃんの方へ身体を寄せた。現役モデルのキレーな顔をこんな至近距離で見ることなどこれまでにない経験だが、近過ぎるのも些か問題だ。気がある訳ではないが、どきどきしてしまうのは不可抗力だと思う。それ以上近付かないでくれ、と内心願いながら「あはは…」と曖昧に返事をした。 顔が整い過ぎなほど整っていることもそうだが、さっき私と大輝くんが兄妹だと言った時、真っ先に「似てない!」と叫んだ人物でもあるため、私は既に彼に対して良い印象を持っていなかった。 「中学からの付き合いなのに、水臭いっスよ」 「聞かれなかったら、言わないでしょうし…」 「桃っちや黒子っちは知ってたんスよね?」 「さつきちゃんは幼馴染で、テツヤくんはよくうちに来てましたから」 「ふーん」 何気ない会話だけれど、遠回しに何かを探られている印象がある。好奇心の滲んだ目、その目は私の大嫌いなものだった。なるべく黄瀬さんの方を見ないようにして、小皿に取り分けられたサラダに口をつけた。いつもだったら喜んで食べるそれも、黄瀬さんへの警戒心から味がしない。しかも、こうもじっと見られていては気分が悪い。やっぱり今日は、喧嘩をしてでも家に残っておくべきだっただろうか。じろじろと見られるくらいなら、いっそ放っておいて欲しいのだが。 「あの、」 「本当、似てないっスね」 「…それはもう分かりましたから」 「よく言われるんじゃないスか?」 「…………」 「言われなきゃ分かんないくらいっスよ」 ずかずかと人の部屋に土足で入られた気分だ。人の気にしていることを平気で抉って大きな傷を残す言葉を、平気で吐く。反論したくて、けれど口を開けば泣いてしまいそうだから、せめて無言を貫き通すことで耐えた。何も知らないにしろ、無神経な言葉を並べるこの人に、今すぐにでも平手を喰らわせてやりたい気分だ。人の目がなければいてやるのにと、きつく唇を噛んだ。ここまで黙り込んでしまえば大概の人間は察して引くだろうに、いい性格をしている人物のようだ、黄瀬涼太という人は。しかもわざとしていることは分かっていた。私の反応を楽しんでいるのか、私を傷つけて楽しんでいるのか。 もう耐えられない、と一人で変える決意をしたその時、突如ガタンと大きな音を立てて大輝くんが立ち上がった。驚きのあまり皆が一様に目を丸くしていると、「帰るぞ、」と言い出す。 「どうしたの、大輝くん」 「どうしたもこうしたも、未成年だろお前。時間見てみろ」 「あ……」 腕時計を見ると、もうすぐ21時になろうとしていた。私の鞄もジャケットも適当に引っ掛けて、最後に腕を引いて無理矢理立たせる。ゴン、と膝をテーブルで打つ鈍い音がした。それと共に、じんじんと膝に痛みが広がる。「大輝くん!」半泣きになりながら睨んでもかわされてしまい、代わりに大輝くんは黄瀬さんの方を見た。 「言っとくけどな、黄瀬。似てねぇって言われて嬉しい兄妹なんていねぇんだよ」 そうしてテーブルに二人分の代金を置くと、周りが止める声も聞かずに私を引っ張ってお店の外に出た。 未成年だから、なんて建前だ。私が困っていたから助け船を出してくれたんだ。私一人では黄瀬さんをかわしきれなくて、対処できない。ずっと他の人たちと喋っていながらも、私を気にかけてくれていたんだ。思えばいつだってそうだったのに、放っておかれたことなんて一度もなかったのに、一瞬でも“ついて来なければよかった”と大輝くんに言おうとしていた自分が恥ずかしい。 お店を出たきり、大輝くんも私も一言も喋らない。大輝くんの少し後ろを遅れないように歩くけれど、怒っているのか何なのか、いつもだったら私に合わせてくれる歩幅を合わせてくれる様子はなく、振り向いてくれることもない。多分、大輝くんも言葉を探しているのだと思う。私も、こんな雰囲気で何を話せばいいのか分からなかった。けれど、背中を向けられていることは寂しい。大輝くんの服を後ろからちょんっと引っ張って呼びとめた。 「大輝くん、大輝くん」 「…んだよ」 「さっきは、ありがとね」 「何のことだよ」 「ううん、いいの」 「なんだよそりゃ」 ようやく、苦笑いしながら振り向く。良かった、怒ってない。 「おら、早くかえっぞ。さみー」 「大輝くんが寒かったら私はもっと寒いよ」 「じゃあ手ぇ貸せ」 私の返事も聞かず、強引に私の右手を攫って行く。 大輝くんは、小さい頃から私のヒーローだ。困った時も、悲しい時も、大輝くんが私を助けてくれる。一番私の傍にいて、守っていてくれる。だから私は大輝くんが好きだ。もうずっと一緒にいるから分かる、大輝くんも私が好きだ。だって、普通の兄妹だったらこんな歳になって手を繋いで帰ったりしない。いくら仲の良い兄妹だからって、聞いたことがない。それくらい、私にも分かる。 こんなことができてしまうのは、似てないと言われてこんなにも苦しいのは、私が大輝くんと血の繋がった妹ではないからだ。 |