今日は大事な話がある。この間みたいに誤魔化されたりはしない。はぐらかされたりもしないし、流されたりもしない。掘り返すようで悪いが、私は今年度末でこの学校を退職するつもりだ。今日、その退職願を出して来た。その話をちゃんと青峰くんにしなければならない。あやふやなままだと、せっかくの覚悟も無駄になってしまうし、青峰くんと関係を続けるための選択のはずなのに、このまま別れる、なんてことになってしまいかねない。それは、それだけは絶対に嫌だった。そう思うほどに、私はもう青峰くんにどっぷりになってしまっていたのだ。

「青峰くん」
「おー」

 いつもと同じように絨毯の上に直に座り込んでいる青峰くんに声を書ける。今日は“世界の魚”という図鑑を見ているらしい。中にはこの間と同じように結構グロテスクな色をした魚も載っていたりして、つい私は目を逸らした。が、雰囲気を察したらしく青峰くんはぱたんと本を閉じた。

「退職願、出して来ました」
「…あっそ」
「四月からは、隣町の市立図書館で働くことになります」
「受かったのかよ」
「なんとか」

 けれど相変わらず目は合わせないまま。ぱらぱらとページを捲ってみたり、閉じてみたり、大きな両手で図鑑を弄んでいる。
 引き留める言葉は望んでいない。むしろ、「よかったな」という一言でも良いから欲しかった。けれどやはり青峰くんの中では割り切れない何かがあるらしく、その表情は複雑そうだ。それ以上、彼の口からは言葉は出ない。
沈黙の放課後、カーテンを閉めていても司書室に差し込む西日は九月らしくなって来た。まだ当然気温は高く、八月とあまり変わりはないが、少しずつだが空の表情も秋へと変わりつつある。そうして風は涼しくなって行き、陽は短くなり、澄んだ空気がやって来て、雪が降る。そうしたら、私はこの学校とお別れする時期がすぐに来る。

「私、退職願を出して良かったと思っています」
「そりゃ司書サンはな」
「いいえ、青峰くんにとっても」
「なんだそりゃ」

 苦々しげに青峰くんは吐き捨てた。理解できない、とでも言うように。確かに会う回数は確実に減ってしまう。来年の四月からは、毎日ここへ来たって私はもういない。けれど、こそこそとしたお付き合いはしなくていいのだ。堂々と隣に立って街を歩けるだろうし、手を繋ぐことだってできる。今は秘密の関係でも、時が来れば隠すような真似をしなくても良くなるのだ。もちろん、退職してすぐ、という訳には行かないだろうが。それに、次の勤務先へ来るなという訳ではないのだ。私はもうここへはそう簡単に来られなくなるけれど、今みたいに青峰くんが通って来てくれればいい。次の図書館へ。

「次の図書館でも司書している私を、見て欲しいと思う」
「…………」
「でも、三月までなんてあっという間ですよ。それまでの間、ここで高校生をしている青峰くんを一番近くで見ていたいというのは我儘ですか?」

 誰よりも知っていたい。誰よりも近くにいたい。好きであれば当然のことだと思う。多かれ少なかれ、誰にでも生まれる独占欲だと思う。私なりに嫉妬もしたし、葛藤もした。不慣れな恋愛に悩んだり泣いたりした。青峰くんには散々振り回されたし、無茶なこともたくさん言われた。それでも、仕方ないのだ、好きになってしまったのだから。私だけの、にしたいと思うようにしたのは青峰くん自身なのだ。
 私の問い掛けに、青峰くんは答えてくれない。私の顔すら見てくれない。流石にこれは辛い。泣きそうになるけれどぐっと堪える。

「俺は、卒業まで見ていて欲しいと思っていた」
「……ごめんなさい」
「謝んなよ、これだって俺の我儘なんだろ」
「お互い、我儘ですからね」

 青峰くんは立ちあがると、司書室のテーブルに図鑑を置いてようやく私の方を向く。その顔は、困った風でもなく、戸惑っている様子もなく、怒っている訳でも悲しんでいる訳でもなかった。

「一瞬でも俺から目ェ逸らしたら許さねぇからな」
「目移りできなくさせたのは青峰くんです」
「バーカ、自己責任だろ」
「青峰くん…自己責任って言葉知ってたんですね…」

 本気で驚くと、ぺしりと額を叩かれる。けれどそのすぐ後に、同じ個所へ唇を落とされる。それは、私は今、ひどく甘い甘い恋をしているのだと、実感するキスだった。








  

(2014/06/17)