あれから、何事もなかったかのように青峰くんは元通りになった。私の退職に関する話題は一切出ないまま、八月は終わった。さすがに八月の間はここへ来る回数は減っていたのだが、今ではいつも通り部活をサボり、放課後にはこの司書室に足繁く通う。今日はどうやら世界各地の海の写真集を見ているようだ。珍しいもの読んでるな、なんて思っていたら「美味そうな魚釣れるとこねぇかな…」なんて呟きが聞こえて思わず顔が引き攣る。それなら見る本が違うと思う。 昼休みと放課後は一番図書室が忙しい時間帯であるため、司書室に籠りきりと言う訳にはいかない。カウンターに出て貸し借り業務をする方が多い。その片手間に新刊コーナーのポップを作ったり、入れ替え作業や本の保護シートを貼ったりなどもする。この時、気を付けなければならないのは司書室に図書委員の子を入れないようにすることだ。青峰くんをここで匿っていることを誰にも知られてはいけない。生憎、ただ一人には知られてしまったようだが。 やがて下校時刻になると、ようやく青峰くんと二人きりの時間がやって来る。図書室前のドアプレートを“閉館”に替えてしまえば、ここに入って来る人は誰もいない。やっと司書室に入ると、今度は『水辺の生き物』という図鑑を読んでいる。ちらりと覗き込めば、鳥肌の立つような気持ちの悪い生き物の写真が並んでいて、私はすぐさま目を逸らした。 「…んだよ」 「いや、別に…何でもありません…」 そして今度は机に向かい、今後の本の入荷申請書と睨めっこを始める。けれど、いつもなら好きなこの作業に集中できない。それは、司書室の隅で胡坐をかいて図鑑を興味深そうに眺めている青峰くんがいるからで。別に、彼に見られている訳でもないのに私が一方的に意識をしてしまう。 青峰くんと 私は椅子から立ち上がると、そのまま彼の前に立ってそっと手を伸ばした――― 「だからさっきから何見てんだよ、司書サン」 「あ……」 ぎゅっと手首を握られて、我に返る。 見つめられた時だけではない。最近は青峰くんを見ただけで、理由のつかない奇妙な感覚を味わっている。ずるずると、まるで引き込まれて行くかのようだ。 しかしこの密室に彼と二人と言うのは、今では私にとって毒でしかない。部活を理由に去ってくれないだろうかと期待するも、どういう訳か彼は元々部活に出なくて良いらしい。部外者の私が口を挟めることではないため、それ以上煩く言うことができず、結果、青峰くんは毎日ここに入り浸っているのだ。 手首がどくんどくんと脈打っている。図鑑から顔を上げた青峰くんとは視線が交わり、私はまた言葉を失う。何も言えないまま、魚のように口を開いては閉じ、開いては閉じる。 「司書サンさ、俺よりコドモな所あるよな」 「は……はっ!?」 「すっげぇ男慣れしてねーの」 この手、何しようとした?―――そんな彼の問いに答えられない。別に、何かをしようとした訳じゃない。思考より先に体が動いただけだ。触れたくて。 (触れたくて、青峰くんに) 思い出したのは、口論になった時にされた荒々しいキス。あれをキスとカウントして良いのか―――いや、して良いのだろうが、あの時、全身が震えた。初めての経験、初めての感覚、言い争っていた最中とはいえ、覚えているのだ。あの、青峰くんの唇の感触を。以来、青峰くんに会う度に胸はずくりと疼き、私の目は自然と彼の唇へと動く。当然、ずっと見つめている訳ではないが、最初に目が行ってしまうのだ。 (ああ、これって) キス、したい。して欲しい。そう思うこれは、心の底が震えるのは、欲情なのではないか。そう自分に問い掛けた途端、恥ずかしくなる。はしたない、と頭を振る。 一人で葛藤する私をよそに、青峰くんは「しゃがめよ」と私に言う。彼はいつも命令口調だ。幾つも年上だと言うのにも関わらず、いつも。対して私はなかなか敬語が抜けない。これではどちらが大人でどちらが子どもか分からない。 言われた通りに絨毯に膝をつくと、私の頭をがしっと両手で掴み、「何するの」と反論する隙を与える間もなく唇を塞がれる。何の前触れもなく、同意もなく、合意の上でもないキス。けれど、この間より余程優しさを感じる。最初は驚いたものの、こう言う時って目を閉じればいいのかな、と、混乱する頭で何とか考えられた私は瞼を伏せる。何度も角度を変えて繰り返されるそれに抵抗などできるはずがなく、いや、する気もないのだが、待ち望んだ感覚に酔い痴れた。 やがてゆっくりと唇が離れると、はぁ、と息を吐き出す。 「キスしたいなら言えよ、」 その言葉に、何も言い返せない。何もかも見透かされていたのだと思うと、また恥ずかしくなる。 私の退職の話とか、今後の話とか、もっといろんなことを青峰くんとは離さなければならないのに、上手に誤魔化されてしまったみたいだ。まあそれでもいいか、と思ってしまう私も私だ。 青峰くんの言うとおり、私もまだまだ単純なコドモなのかも知れない。 ← ![]() (2014/05/16) |