同じ図書館司書の友人が、寿退職をするという。相手が関東外の人らしく、結婚相手について行くべく今の図書館での司書を辞めるのだそうだ。そんな友人に、私は仕事が終わってから呼び出され、夕食を一緒することになった。いつ退職するだとか、どこへ引っ越すのだとかを一頻り話し終えると、突然彼女にお願いをされた。

「桐皇は私学でしょ?うちは公立図書館だから公務員扱いだし、今よりずっとお給料も良いと思うの」
「うーん…」

 退職して空きの出る司書の席、彼女はそこにぜひ私を、と推しているのだ。
 私も彼女も、図書館司書の資格を取ってすぐに採用してもらえたのは本当に幸運だった。偶然、空きが出たばかりの図書館へそれぞれ応募したため即採用してもらえたのだが、このようなことは滅多にない。公立図書館だろうと学校図書館だろうと、とにかく本に囲まれた仕事をしたかった私は、今とても充実している。しかし、そこへこのような話が舞い込んで来るとは思わなかった。
 確かに、彼女の言うとおりだ。同じ司書でも彼女に比べてうんとお給料は低い。だから、拘りさえなければ公立図書館へ転職する方が生活のためにはなるのではないか、と言ってくれている。

「それにほら、ってば生徒と関係持っちゃったんでしょ」
「その言い方やめてよ…!まだそんなんじゃないんだから…!」
「どっちにしたって同じよ。は何とでもなっても、相手の生徒の将来潰したら終わりなんだからね」

 フォークの先を私に向けて言う。否定ができなくて私は言葉を詰まらせた。当然のことだが、私と青峰くんの関係は誰にも知られてはならない。本当ならば決してあってはならない関係なのだと、第三者に言われて改めて胸に突き刺さる。
 返事はまだもう少し先で良いと言われたが、現実に直面して気落ちしてしまった私は、もう食事の味も分からなかった。



***



 次の日、落ち込んだままの気持ちで出勤すると、やはり当たり前のように司書室の外に座り込んだ青峰くんがいた。窓を開けて「おはようございます、青峰くん」と声をかける。すると、「なんつー頭だ、ソレ」と、いつも一つにまとめている髪をまとめず、流したままの髪をちらりと見て言った。今朝は身だしなみに気を遣う余裕すらなかったのだ。ぴょこんとはねている前髪に気付くと、顔を逸らして笑いを堪えて見せた。それならいっそ笑ってくれた方が良いと、私は顔を引き攣らせながら笑った。
 何も知らない青峰くんはいつも通りで、私がなんで眠れないほど悩んでしまったかだなんて知るはずもなくて、それなら私もいつも通りにしていなければならないのに。青峰くんを見ると、ますます昨日言われたことを思い出してしまい、上手く笑えなくなる。いつものように突っ掛からない私を変に思ったのか、青峰くんは笑うのをやめて私の方を向いた。

「どうしたんだよ」
「え?」
「頭だけじゃなくて顔もヘンだぞ」
「こ…っ、この顔は元々です!」

 そこでようやく下を覗き込んで大声を上げると、髪がさらりと前に流れて来る。こちらを見上げる青峰くんと目が合う。そこには茶化すような雰囲気な微塵もなく、ただ真剣に私を見つめる青峰くんがいるだけ。不意に泣きたくなって唇を噛む。
 泣いちゃだめだ、何かあったと悟られちゃだめだ―――そう自分に言い聞かせても既に遅く、青峰くんは立ち上がって「何があった」と言う。

「なんでも、ない」
「…そっちに行く」
「だめ!」
「うるせぇ」
「だめったら!」

 止めるのも聞かず、青峰くんは部屋の外から走り去る。図書室側からこの司書室に入って来る気だ。
 いけないことをしているのを認めることには、勇気と覚悟が要る。そして、痛みを伴う。青峰くんにこんな話をすれば、「じゃあ別れるか」と簡単に言われてしまいそうで怖いのだ。けれど、そうするのが本当は正しい選択だ。青峰くんはまだ高校生で、もっと同年代に可愛い彼女を作るべきで、学校のいろんな行事をその子と経験するべきで、私みたいに六つも七つも年上の女に縛られて学校生活を送っていて言い訳がない。
 そう言って突き放せばいい。それが正しいことなのならば、私から別れを切り出せばいい。私だって、周りの目を気にせず自由に恋愛できる相手を見付ければいいじゃないか。

「だめ…できない……」

 だって、知ってしまった。青峰くんを好きになって、名前を呼ばれる度にときめくこと、触れられる度に心臓が速くなって止まないこと、そして何より、こんなにも幸せな気持ちになること。戸惑うことも焦ることも、寂しくなることだってあるけれど、それ以上に幾つも年の離れた彼から時々与えられる不器用な優しさが嬉しい。それを私は、本当に手離せるだろうか。一度知ってしまった幸せを、自ら遠ざけることができるのだろうか。
 自分に問いかけながらも、静かに司書室の内側から鍵をかける。すると、丁度ほぼ同じタイミングで、図書室のドアが乱暴に開けられる音がした。そしてすぐに司書室のドアが開けられようとする。しかし当然それは施錠に阻まれ、ドアは開かれることがない。

「てめ…っ、ふざけんじゃねぇぞ!!」

 ガチャガチャと何度か激しくドアノブが回された後、青峰くんから怒号が飛んで来る。私は扉の前で動けずにいた。彼の怒鳴り声に方をびくつかせながらも、解錠することができない。何度激しくドアを叩かれようと、私の手は鍵に伸びない。

「何とか言え!開けろ!」
「ホ…ホームルームが始まります!」
「行けるわけねぇだろうが!」
「そ、そんな喧しくしたら人が来ます…!」
「てめぇが大人しく開ければ済む話じゃねぇか!」

 耳を塞いで目を閉じた。青峰くんはまだ、それでもドアを叩いて叫んでいる。
 どうすればいい、何が正しい、何が最良なのだろう。…違う、私はどうしたいのだろう。

(私は…)

 ぎゅっと閉じていた瞼を開けて、ゆっくりとドアの鍵に手を伸ばす。ガチャン、と軽い音がして、鍵は外された。途端に静かになる司書室。私は俯いて、ドアが静かに開かれるのを待った。軋んだ音を立てて、ドアは開く。私の目には、青峰くんの靴だけが映っていた。その足が一歩、司書室に侵入する。そして青峰くんは後ろ手に扉を閉め、私と同じように鍵をかけた。すぐに窓の方へ向かい窓も閉め、カーテンも引くと、ようやく青峰くんが口を開いた。

「何があった」
「…私、この仕事が好きで…」
「ああ」
「でも、青峰くんも好きで、もう、よく分からない…」
「…司書サンの話の方が分からねーよ」

 本好きな癖にどんな語彙力だよそりゃあ、と言って、青峰くんは俯く私の頭を引き寄せた。すっぽりと青峰くんの腕の中に収まった私は、ほっとしながらも不安に襲われて仕方ない。この温度と離れてしまうなんて、この声を毎日聞けなくなるなんて、そんなのはあまりにも寂しい。司書の仕事は他にもあるかも知れない、けれど青峰くんはここにしかいない。ここではない図書館の司書になって、青峰くんに毎日会えなくなるのは嫌だ。けれど、青峰くんと別れなければならないのは、もっと嫌だ。
 頭に回された大きな手、腰を引き寄せる逞しい腕、そして制服越しに伝わって来る温度。私と同じく、僅かに早い心臓の音を感じれば、ああそうか、と一つの答えが浮かんで来る。
 あれもこれもと欲張りになるから何も見えなくなるのだ。私が欲しいのは今一瞬だけなのか、これからもずっとなのか、天秤にかけてみる。そうすればどうだ、答えはすっと出て来はしないか。

「青峰くん」
「なんだ」
「私、ここの司書辞めようと思うの」

 言葉にすれば、胸につっかえた重い何かが、すっと外れたような気がした。








  

(2013/12/18)