夏休みの一週間前、図書館司書の私は忙しい。未返却の本の返却請求書を書かなければいけないのだ。これだけ大きな学校だと、残念ながらやはり決まりを守らない生徒も多い。今日は朝からその請求書を作っていたが、残業になるかと思われるほど山のようにあった請求書作りは、実は予想よりも遥かに早く終わった。と言うのも、司書室の常連である青峰くんが手伝ってくれたからだ。もちろん私が緊張しない訳がない。少々彼と接するのはぎこちなかったけれど、それでも彼の許容範囲であったらしい。

「ありがとう、青峰くん」
「おー」

 青峰くんが手伝ってくれたのは放課後からだったが、やはり一人よりは二人。青峰くんのいるいないでは仕事の進み具合が違った。最後に返却請求書をクラス別にまとめ終え、青峰くんを振り返ると、飲食禁止の司書室で彼は堂々と水を飲んでいる。しかし私も青峰くんに目撃された例があるため、注意などできやしない。
 今日は特に動揺させられるようなことは言われていないけれど、今や青峰くんがいるというだけで、私は平常心ではいられなくなっていた。淡々と進める作業があったからこそ気を紛らわすことができたものの、これがなければ私はとてもじゃないが青峰くんと二人で司書室に篭ることなどできなかっただろう。何とか無事に今日は終わりそうだ。

「遅くなってごめんね。今日はもう、」
「司書サンさ、おかしいと思わねーの?」

 いや、やはり無事に終わりそうにないらしい。「な、にを」片言のように返すと、睨むかのように彼は私を見た。カーテンが閉まって密室なのをいいことに、青峰くんは一歩、また一歩と私に迫って来る。それは先日の書店での一件を思い出させ、私の胸は早鐘を打った。

「分かってねぇなら本当の馬鹿だが、俺が知ってるのは筋金入りの読書好きな司書サンだ。分からねぇはずがねぇよな」
「あ、青峰く、」
「俺が高校生だからか?司書サンの職場に通う生徒だからか?」
「あの」
「その気がねぇならはっきり言えよ」

 とうとう壁際まで追い詰められ、私は逃げ場をなくす。こん、と踵が壁に当たって小さな音を立てた。私の顔を覗き込む青峰くんの目は、相変わらず鋭い。
 分かってるなら聞かないで欲しい。青峰くんこそ、思わせぶりなことばかりしているではないか。自分ばかりが振り回されているようなことを言っているけれど、それは私だって同じ。青峰くんは一度だって直接的な、核心に触れる最後の一言をくれたことはないのだ。それなのに私から何かを言い渡すなんて、ただの自意識過剰だったら恥をかくのは私。それ以前に、彼の言った通り私はこの学校の司書、彼はこの学校の生徒だ。成立が許される関係ではないことは、重々承知なはず。それを分かっていてそんな自分勝手なことを言っているのかと思うと、段々と腹が立っていた。

「私だって、何も考えてない訳じゃない」
「ふーん」
「青峰くんに私の何が分かるのよ。私はいくつも年上だし、青峰くんは生徒だし、…それに、モラルや将来を考えてみなさいよ」
「知らねぇよ」
「そうじゃなくて!」
「あーもーうるせぇな」

 私の言葉を面倒臭そうに乱暴な口調で遮ると、強引に私の体を抱き寄せた。高校生とはいえ、さすがバスケをしているだけあって逞しい腕が、苦しいくらいに私を捕らえる。見上げるほど背の高い彼に抱きしめられたせいで、僅かに踵が浮いている。
 一瞬で言葉を失い、私の頭の中は真っ白だ。青峰くんはいつも何でも唐突だけれど、かつてこんなにも唐突だったことはない。緊張することも、動揺することも忘れた私は、ただただ真っ白だった。思考の全てが停止し、青峰くんの声を聞く耳だけが機能しているようだった。

「バレねぇ方法ならいくらでもあるんだよ」
「…………」
「そんなに怖がることじゃねぇだろ、認めろよ」
「………や、」
「嫌だも駄目だも聞きたくねぇ」
「…………」
「なぁ、司書サン」

 私はもう大人なのに。私が制御しないといけないのに。せめて、せめて青峰くんがここの生徒じゃなくなるまでは、私だけの中で留めておかなければならないのに。青峰くんの言葉は甘い誘惑のように心の隙間に入り込む。大人という固い鎖を溶かして、扉をこじ開けようとする。扉の奥にある、私の本心だけを求めて。

「いいの?」
「何が」
「私が、…青峰くんを好きでも」

 今頃になって心拍数が上がって来た。クーラーもかかっているはずなのに熱くて仕方がない。止まることを知らない心臓の拍動も、強いまま動き続ける。
 青峰くんのせいだ。閉じ込めていた言葉が零れ出したのも、言うはずのなかった本心が口をついて出て来るのも。制御が利かないのも、熱くて仕方がないのも、全て青峰くんのせい。私は一度だって、自ら司書室と外の壁という境界線を侵したことはなかった。いつの間にかこんなにも自然に、近くに居座られていた。そうして、私はコントロールを失ったのだ。

「悪いなんて誰が言うかよ」

 青峰くんが、私に笑いかけた。彼が卒業するまで、私も待てないらしい。








  

(2012/09/08)