買ったばかりの本にのめり込んでしまい、遅くに寝たせいで寝坊をした。遅刻はしなかったけれどギリギリだ。職員室に飛び込んで行けば、もう私以外に先生たちは皆さんお揃いだった。いつも割と早くに出勤するものだから、「珍しいこともあるんですね」と言われ恥ずかしい思いをしたのはほんの十分前のできごと。お陰でいつもの麦茶も買えておらず、喉はカラカラのまま私は司書室に着いた。

「今日はえらい社長出勤だな、司書サン」
「…………」

 振り返らなくても分かる、また彼がいる。HRも始まる直前にこんな所に訪問して来るのは彼しかいない。

「おい、何か返事しろよ」
「もうHRが始まります」
「走って間に合えばいいんだろ」

 最初は大目に見ていた私だけど、教師ではないとは言え、やはりこの学校に勤務する者として彼には指導しなくては。そう改心した私は彼―――青峰くんを振り返らずに言葉を返した。するとそんな私の態度に不満だったようで、途端、背後から不穏な空気を感じる。怯んだ私が思わずそっと青峰くんを振り返れば、不機嫌を顕にした彼が立っていた。ただでさえ威圧感のある風貌なのに、不機嫌になるとそれは二倍にも三倍にもなるらしい。

「早くに来てやった日に限って何なんだよ」
「え…と……」
「遅刻かと思って買っといてやったってのに」
「わっ!」

 何の前触れもなく投げつけられたのはペットボトル、いつも私が買っている冷たい麦茶だ。嬉しい―――ではない、職員が生徒からこんなものを受け取ってはいけない。窓際まで駆け寄って突き出すも、当然青峰くんは受け取ってくれない。

「駄目だよ、青峰くん」
「喉渇いてんだろ」
「渇いてないわ」
「バレバレの嘘つくんじゃねーよ、そんな汗かいといて。飲めばいいだろ、誰もいねぇんだし」

 ようやく向かい合ったからか、先程より幾分か青峰くんの機嫌は良くなったらしい。けれどまだ問題はある。素直にこれを受け取らない限り、青峰くんは教室に向かわないだろう。生憎、私は彼を教室に向かわせかつ麦茶を受け取らずに乗り切る術を知らない。それに、全力で走って朝の職員会議に乗り込んだ私に、右手の麦茶は余りにも大きな誘惑なのである。…高校生の癖にやってくれるではないか。

「お、」

 我慢できなくなった私は、思い切ってペットボトルの蓋を開け、一気に麦茶を半分ほど飲み干した。その瞬間、HRの開始を知らせるチャイムが鳴る。

「……っ間に合わなかったじゃない…!」
「でも助かっただろ?」

 一本取った、とでも言いたげな笑みを浮かべる青峰くん。悔しいながらも「……まあ」と応えれば、彼は屈んで地面に置いていた鞄を拾い上げた。…置き勉でもしていそうなぺしゃんこの鞄。あの中に、私の貸した本も入っているのだろうか。叱ることを忘れてそんなことを思っていれば、窓の外から手が伸びて、青峰くんが手背で私の頬に触れる。

「あ、」
「それでいーんだよ」

 じゃーな、と言いながらその手が離れる。暗黙の了解である一線を、青峰くんはいとも簡単に越えて見せた。思えばいつも彼からだった。窓の外から声をかけて来たのも、侵入して来たのも、そして触れたのも。

「だめだよ、青峰くん…」

 これ以上踏み込んでしまえば、これまで通りに青峰くんに接することができなくなってしまう。制さなければならない立場の私が、自ら危ない橋を渡ってしまう。…こぼれそうになるたくさんの言葉を麦茶と共に飲み込んで、私は必死に動揺を抑える方法を導き出そうとしていた。








  

(2012/08/24)