「へー。司書サンでも違反はするのか」
「えっ!?」

 声のする方を振り返れば、窓の外から青峰くんがこちらを覗いていた。驚いて持っていたペットボトルをゴトン、と絨毯の上に落とす。…“違反”とは、図書室と併設された飲食禁止の司書室で私が冷たいお茶を飲んでいたことだろう。出勤すると既に蒸し暑い司書室は、クーラーをつけるよりも先に窓を開けて換気をした方が良い(尤もこの籠った図書室独特のにおいは、窓を開けた所でどれだけ変わるかなど知れているが)。首を汗が伝う中、私が手を伸ばしたのはさっき自販機で買った冷たい麦茶。一気に三分の一を飲み干したところを、青峰くんにばっちり見られていたらしい。いや、そんなことよりも。

「あ、青峰くん!HRは!?」
「あー…なんかだりぃし」
「青峰くん、あなたね、」
「ん」

 すっと差し出されたのは小さな文庫本。それは、この間私が個人的に青峰くんに貸したものだった。先日、放課後にこの司書室の窓の外に彼が現れたことから、図書室とは全く縁のないらしい彼と私は出会った。それからというもの、時折こうして気まぐれに現れる彼と私は話す機会が増えた。昼休みや放課後だけならまだしも、こうしてHRや授業をサボってやって来ることがあるのが私の頭痛の種だった。
 それでも、普段は本など読まないという彼が「暇つぶしに読みやすい本を貸してくれ」なんて言い出したものだから、嬉しくてつい私物を貸してしまったのは私である。この間、青峰くんを見かけた時、本当に貸した本を読んでくれていて更に嬉しくなったのも私だ。

「読みやすかったでしょう?」
「まあまあ」

 適当な方向を向いて適当な返事。けれど、面白くなかったら青峰くんは面白くないと言うはずだ。その言葉がないということは、少なくとも面白くないということはなかったのだろう。彼の適当な返事に満足した私は、笑顔で返された本を受け取る。この時期の男の子というのは素直じゃない。そこがまあ、可愛くもあるんだけれど。

「次」
「へ?」
「次の本貸せって言ってんだよ。暇つぶしに」
「はいはい」

 読書好きが高じて図書館司書になった私は、いつも二冊ほど文庫本を持ち歩いている。今日持っていた本も、割と読みやすい類の本だったため、仕事用のバッグの中から一冊の本を取り出した。

「なあ、司書サン。あんた好きなヤツとかいんの?」
「好…っ!?」

 予想もしなかった言葉に勢いよく振り返った瞬間、私はバッグを乗せていた椅子に足を盛大にぶつけてしまった。しかもその衝撃でバッグは椅子から落ち、中身は絨毯の上に散らばる。財布、定期券、メイクポーチ、手帳、そして本―――ぐちゃぐちゃになった中身は、突然の質問で混乱した私の頭の中を表しているようだ。

「そ……んなこと聞いてどうするのよ」

 青峰くんの方を振り返らず、散らかしてしまった中身を一つずつ鞄の中へ戻して行く。片付けろ、頭の中も一つずつ片付けろ。何も動揺するような質問ではないではないか。ただ、まさか青峰くんにそんなことを訊かれるとは夢にも思わなかったため、変に動揺してしまっただけだ。単純な私は本に興味のなかった生徒が司書室前に通ってくれ、更には本を読んでくれ、今、二冊目も読みたいと言ってくれたことが、とてもとても嬉しかったのだ。生徒たちの授業中は、ひたすら一人で作業をする毎日。そこへ出現したイレギュラーに、私は嬉しくなっただけ。
 別に、もしかして、なんて思ってなんかいない。

「どうもしねぇけど」
「なら、いいじゃない」
「いるんだろ。告白しねぇの?」

 私の言葉などまるきり無視して質問を続ける青峰くん。困った私は、溜め息まじりに彼を振り返った。

「だからね、」
「したらいいじゃん」

 彼は、窓枠に頬づえをついて、じっとこっちを見ていた。一度、土足で上がって来た時に私がこれ以上ないほどに怒ったため、それ以降はこの窓枠を越えるようなことをしない。なんだかんだ、言ったことは忠実に守ってくれているらしい。それなら、司書と生徒の枠も忠実に守ってくれれば良いのに。…いや、私物を貸した時点でそれを破ったのは私の方か。それでも、求められた二冊目を私は彼に差し出すのだ。

「そんな簡単なものじゃないよ」
「…ふうん」

 納得いかなさそうに生返事をし、私の本を受け取る。

「……あと二年な」
「え?」
「なんでもねぇよ。じゃーな」

 そうしてまた、ふらりとどこかへ消えて行く。蒸し暑さの消えてくれない司書室で、私は背中が汗でべたべたするのも気にせず、青峰くんの大きな背中が見えなくなるまで窓を開けていた。次はいつ来てくれるのだろうか、どんな感想をくれるのだろうか―――そんな小さな期待を抱きながら。








 

(2012/08/18)