部活が終わり、家に帰ると玄関を開けた瞬間にとてつもなく甘い香りがした。加えて、キッチンから母の楽しそうな声がする。ああ、もしや…とキッチンを覗いてみると、自分の母親とが肩を並べてキッチンに立っている。お菓子作りをしているようだが、部活帰りで腹を空かせている所へこの甘ったるい香りはなかなかにきつい。

「…帰ったのだよ」
「あら、真ちゃんおかえりなさい」
「お、おかえりなさい!」
「今ねえ、ちゃんとシフォンケーキを作っていたのよ」

 見れば分かる。それよりも俺は夕飯を食べたいのだが、すっかり浮かれている母は気が回らないらしい。まあ、これまで女が一人しかいない家だったから、という仲間が増えて嬉しいのだろうが。…すると、俺の様子を察したらしいが「夕飯温めますね…!」と慌てて言う。すっかりうちのキッチンを把握したらしいはいそいそと動き出す。
 最初は家でも緊張していただが、こんな母の性格のお陰か、今ではよく家でも笑っている所を見掛けるようになっていた(ただし、相変わらず俺が現れると途端にぎこちなくなるが)。

「…学校は慣れたか」
「少しは…」

 着替えてリビングに戻って来ると、は引き続き夕飯を用意してくれていた。声をかけて見るが、やはり俺とは未だに目が合わない。こっちを見るものの、焦点は俺ではないのだ。生活に支障があるかと聞かれれば、ない。同じ家に住んでいても顔を合わせる時間はごく限られている。学校でも席は近いがよく会話をする訳ではない。しかし、高尾は随分とを気に入ったらしく、よく話しかけている。…ただ高尾が一方的にコミュニケーションを図っているだけのような気もするが。

「友達も、できたし」
「なら、良かったのだよ」

 それでも一つ変わったことと言えば、が俺や高尾に対して敬語ではなくなったことだろうか。宣言通り、少しずつはも進歩しているらしい。
 照れているのか居心地悪そうにきょろきょろと視線を動かすが、何か小動物のようでつい頭に手を伸ばすと、その瞬間石のように固まってしまった。まずい、と思ってももう遅い。はぎこちない動作でキッチンにいる母の元へ戻って行く。彼女の進む一歩はとても小さな一歩で、ちょっとしたことでまた後ろに下がってしまうようなものらしい。

「失敗したな…」

 今のは、その一歩を後ろに押し戻すことだった。まだ湯気のあがっている夕飯と、自分の右手を交互に眺めてため息をついた。







  

(2013/03/24)