「こんな時間になっちゃったね」 「まあ、仕方ねぇだろ」 「落ち着いてできるからいっか」 「おー」 いよいよ、婚姻届を出しに来た。私の仕事やら大輝くんの練習が長引いてしまい、結局提出は時間外窓口になってしまった。誰もいない、静かな窓口。淡々と役所の人は手続きをしてくれる。お互い、人混みがあまり好きではないため、これくらい空いている方が嬉しい。 大輝くんの名前と、私の名前が並んだ婚姻届。いつも通りの雑な大輝くんの字と、できるだけ綺麗には書こうと努力したけれどいつも通りになってしまった私の字。これで私の苗字は変わるんだな、と思うと、なんだか落ち着かない。そう言えば郵便の宛先変更もしないといけないし、いろんな登録物の名前も変更しないと行けない。免許証なんかはちゃんと覚えていたけれど、急がないものはすっかり忘れていた。 「なに一人で百面相してんだよ」 「や、なんか、そわそわするなって」 「そうか?」 「大輝くんはそのままだもん。私、これで青峰になるんだよ?」 職場ではまだ暫くのままでいることにした。担任をしているクラスの園児たちは“先生”と呼んでくれるし、苗字が変わることで戸惑いや混乱を招きたくない。ただ、この間からテツヤくんには「青峰先生…」などと呟かれては笑いを堪えた変な顔をされるけれど。 手続きが終わったらしく、役所の人が「確かに受理しました」と笑顔で言ってくれた。良い人が担当してくれてよかった。友人は随分と冷たい人に当たったらしく、にこりともせず寧ろ冷たい目で見られたらしい。それは単に僻みではないのか、と苦笑いで返したが、実際私もそんな人に担当されたら文句を言いながら帰っていたかも知れない。 役所を出ると、珍しく大輝くんから手を差し出して来た。あまりに唐突だったため、思わずきょとんとしてその大きな手を見つめていると、大輝くんは小さく舌打ちして私の手を強引に引っ張った。 「ぼーっとしてんじゃねーよ」 「ご、ごめん、珍しいからつい…」 「そういう気分だったんだ、悪ぃか」 「んーん」 嬉しくてつい腕に抱きつくと、「鬱陶しい」と上から声が降って来る。けれど振り払うような素振りは少しも見せなくて、多分、彼なりの照れ隠しなのだろうと思う。 結婚するぞ、と言われた時から、何度も頭の中で繰り返した“青峰”という名前。少し前から一緒に住んでいるし、明日から変わるのも私の苗字だけで、生活自体が大きく変わる訳ではない。引っ越しをした時にもう生活はがらりと変わった。いってきますといってらっしゃい、おかえりとただいまを言い合える生活。おはようとおやすみを言える生活。誰かのためにご飯を作れる幸せ。一つだったものが二つになって行く。けれど、二人で歩いて来た道だけは一つになった。手を繋いで、決して離さないように。 「悪くないな」 「何が?」 「青峰。響きも字面も」 「そうかな…」 「何照れてんだよ」 「べっ別に!」 にやにやと面白そうに笑う大輝くん。唇を尖らせてそっぽ向くと、抱きついている腕を一度解かれ、私の手を探って指を絡められる。すっぽりと包んでしまうほど大きな大輝くんの手。それを言うと、いつも「の手がちっせえんだよ」と言われるけれど、いや、どう考えても大輝くんの手が大きい。けれどこの手に包まれる度に、私はいつも安心する。私はこの手に守られているのだと実感する。 「泣いてんのか?」 「泣いてない!」 「鼻声なんだよバーカ」 「デリカシーのない大輝くんの方がバーカ!」 私の頬を左右にぐいーっと引っ張って無理矢理笑わせようとする。痛い痛い!と反論すると、「ひっでぇ顔」と大輝くんの方が笑った。結構容赦なく引っ張られたため、じんじんとした痛みが長引く。赤くなったであろう頬を押さえた。お陰で余計涙目だ。そんな私の頭を二、三度撫でて大輝くんは優しく笑う。 「終わりじゃなくて始まりなんだから泣くな、笑え」 「…うん」 そんな一言にまたじわりと涙が滲んで、笑ったはずなのに変な顔になる。すると、夜とは言え道端なのに、大輝くんは一瞬で私の唇にキスをした。今日は何だか、随分大輝くんらしくないことばかりをする。色々と思い返して、ああそうか、と気付く。きっと、大輝くんも私と同じで落ち着かないのだ。 なんだ、浮かれているのは私だけじゃなかったんだ。やっぱり、大輝くんも一緒だったんだ。…そう思うと、やっぱり嬉しくて嬉しくて仕方なくて、この人で良かったと改めて思う。 夜道でキスという不意打ちにどきどきしながら、もう一度、どちらからともなく手を繋ぐ。その瞬間、手のひらだけでなく温度も脈も気持ちも、二人のものが重なったような気がした。 |